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20代で生活保護2年目を超えた心境

生活保護になった当初は時間があるから何でもできると希望に満ちていたが、最近は生活に慣れすぎて無欲が目立ってきた。

これは無職歴が2年を超えて精神が堕落してきたのか、出家した僧侶のような生活をしながら仏教関連の書籍を読み漁りすぎて悟りに近づいたのかは定かではない。本来は仕事に使うエネルギーを自分の好きなことへ注げる今の環境への感謝や、生きることそのものに対する幸福感は維持しているため不満はない。

しかし危機感はある。

私が死ぬまで今の生活を継続することは簡単だが、本当にこのままでいいのかと問いかけてくる自分がいるのだ。仏教ではこの世界は「苦しみ」でその原因は「欲望」だとされている。かなり単純化すると、瞑想を通じて欲望を分析すると悟って穏やかに暮らせるよん!って話なのだが、そのベクトルに進んでしまった私は今なんと苦しみを渇望しているのだ。

苦しみは成長の種であり、人生の可能性や豊かさの幅を広げるのに必要で、人間は社会や困難の中で揉まれて育つ。そんな気がしたから今noteを書いている。

ノーベル経済学賞を受賞したダニエルカーネマンさんの研究では、「子育てが苦役」だと感じる親が「子育てこそ幸福の源泉」だと断言する親が多数いた。子育ては単調な仕事が連続する「赤ん坊という独裁者に仕える惨めな奴隷」の側面もあれば、「新たな命を愛情深く育んでいる」とも見なせる。
これは人間が自分にとって何が良いかよく分かっていないことを立証すると同時に、幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないことも示している。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているという。

仏教では人生全体が有意義で価値あるものとして認識することですら私達の脳が作り出した虚構だよ。そんな執着は手放してありのままに世界を見ようよ。と、私達の文化的な物語のラベルまで削ぎ落として、精神を悟りの世界まで連れて行ってくれる。しかし20代の私にはまだその境地を楽しむには早すぎるのではないか。

ある程度仏教を楽しんだので次はギリシャ哲学のように真・善・美のような抽象度の高い理想を設定して追求する生き方をしたい。現代では資本主義的に利益を最大化させることを理想に設定してゲーム感覚で仕事するのが合理的に見えるが、それは数値化できない人生全体の有意義さを無視しており心からコミットできない。そんなことを書いている私の存在は全体主義からすると甘えだが、個人主義の立場では強さであろう。私の高い理想は中道に設定すればいいのかな。少し社会参加の計画をしてみます。

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