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帰らないSeasons

ほんの少しのあいだだったけれど、あなたと一緒にいられて良かった。今度は夢の中で逢いましょう?


1.夢で逢えたら

名古屋駅、新幹線ホームに18時05分発ひかり262号がはいってきた。
夕闇が濃くなってゆき、ネオンサインとビルの点滅灯がはっきりと見えるようになってきた。
ふたりはプラットフォームの上で同じ景色を何も言わずに見ていた。
もしかしたら最後のひとときかもしれなかったが、できることといえば時間の経過をみつめることだけだった。
「あなたがもう少し遅く生まれていれば、きっと一緒になれたよね」
と美樹はいった。
いつのまにか私を大きなひとみで見つめていた。
「そう・・・きっと一緒になれた。」
美樹に向かってそう言うと、彼女は私の胸にとびこんできた。私はコートで包むように彼女を抱きしめた。
そして、彼女の柔らかい唇が私の唇に重なった。
日曜とはいえまだ夕暮れ時でまわりにたくさんの人が行き交っていたが、私達を気に留める人もいなかった。
長い口付けの後、彼女は手の甲で涙を拭いた。
「まるで、10代の恋人たちみたいだよね。」
私は言った。彼女は肯いた。そして、
「あなたに・・・これからきっとすばらしいことがたくさんはじまる。自分のことを信じて、自分のことを大事にしてね・・・。」
と言うと、私の右手を冷たくなった両手で包んで、
「それじゃあ、さようなら・・・。今度は・・・夢の中で逢いましょう?。」
と精いっぱい微笑んだ。私はゆっくりと手をほどきながらひかり号の車内へ入った。間もなく発車のアナウンスが流れ、ドアが閉まった。美樹はドアのガラスの外側に両手をついて唇をかみしめながら、笑顔をつくってくれた。
私が軽く手を振ると、列車は東京方面へと動き出した。

そしてすっかり暗くなってネオンが点りはじめた街の中へ、美樹の見つめ続けたひかり号の赤いテールランプは吸い込まれていったのだった。
まるで、記憶のかなたへ遠ざかって行くように。


2.素敵なJazz Night

名古屋へはこれまであまりくる機会はなかった。
ひょんなことでここにしばらくいることになったのだが、いつも行動はひとりでしなければならなかった。
ビジネスホテルぐらしでは、1週間も経つと結局はコンビニエンスストアの弁当とビールという夕食が定番になっていた。

5月15日木曜日。その日は、久屋大通から中区役所方面にはいったところの、“紺屋“という居酒屋でビールを飲み、食事をした。飲んだ勢いもあってホテルへ帰る途中の東栄通りに面した、アール・デコ風の看板が印象的な“イリュージョン”というパブに寄ってみた。
その店は初めてだったが、入った瞬間に、直感的選択が正しかったことをさとった。私はカウンターの席でトム・コリンズを注文した。フロアの隅のステージではトランペット、アルト、ピアノ、ベース、ドラムスの編成でジャズを演っていた。
Say it, Sentimental Journey ,Epistrophy,と曲が進んだところで一旦ブレークして、女性ボーカルが加わった。 そして、 ディジー・ガレスビーの“チュニジアの夜”がはじまった。私はあまりスタンダードジャズは詳しくなかったが、この曲は、昔持っていたチャカ・カーンのアルバムにディスコアレンジで入っていたので知っていた。 私はカウンター席に座りながら、体を捻ってボーカルに注目した。その女性ボーカルは素晴らしく音域が広く、途中のスキャットの部分にはすべてを忘れて聞き入ってしまった。

その次の曲は意外にも ホイットニーヒューストンの "Saving all my love for you"だった。
聞き惚れた。心に染み入る、そんな感覚だった。確かに白いタイトなロングドレス姿も魅力的ではあったが、あどけない表情から強く訴えかけるストレートな感情を確かに受け止めた。
"You said be patient, just wait a little longer..." というフレーズが気持ちの奥底に刻み込まれた。

ライブが終わった後、しばらくして彼女は白いポロシャツに黒いパンツという姿に着替えて少し離れたカウンターの席についた。セミロングの髪が肩にやさしくカールしていた。
私はごく自然に彼女に声をかけた。
「とても素晴らしい歌でした。えーと・・・」
「汲田美樹 よ。みんな美樹って呼ぶ。・・・きょう初めて来たの?」
美樹は人懐っこい微笑みを浮かべて応えた。
「岡野、岡野慎太郎といいます。今日、ここへは初めて来たんだけど、とてもラッキーだった。 素敵な歌を聞くことができて・・・。」
「歌っている時、あなたのア・ツ・イ・視線を感じてたわ。真剣に聴いてもらえると、歌い手も感じるのよ。・・・あなた、トムコリンズ?わたしも同じの貰おうかな。広瀬さん、トムコリンズ頂戴。」

「名古屋へは仕事?」
彼女はグラスから飾りのレモンをはずしながら私に聞いた。
「仕事・・・、そうなんだけど、むしろ仕事しないようにここへ来たってところかな?」
「ちょっと、ワケアリってやつね。ま、誰しも何かしら事情があるものよ・・・。あなただけじゃないわ。」
彼女はそう言ってまじめな表情で グラスを見つめた。


3.裏切り

「いったいこれはどういうことだね?」
神谷副社長は厳しい表情でそういうと、一通の書類を私の前に投げ出した。

ナショナルフーズ株式会社 神谷達郎 副社長 殿
拝啓
貴社益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
このたび、当国際経済情報新聞社では、貴社総務部 部長代理 岡野慎太郎 氏が、総会屋グループ 辰野物産の 下山晴雄 副社長と数回に渡り接触、辰野物産所有の志賀高原の山荘を保養所として利用する契約を結んだ事実を独自の取材によりつきとめました。
その後、裏付けを取るため、当該の山荘を調査したところ、現状は廃屋同様の状態で、実際に使用できる状況になく、この契約は明らかにナショナルフーズ殿の総会屋対策として、一見商取引を装い金銭を授受したものと考えられます。
弊社としましては、この事実を世間に公表する前に、貴社の経営陣が承知の上のことだったのか、あるいは一担当者がおこなったことであったのかご確認させていただきたく不躾ながらご連絡させていただきました。
平成9年4月15日まで、ご返事をお待ち申し上げますので、お手数ではございますがご連絡ください。
敬具

私はしばらくの間、何も言うことができなかった。
「この 国際経済情報新聞社というのは、いわゆるこの手の企業の裏情報専門に取材して、それを公表することよりも、これをネタにゆすりを行う、という類の、いわば総会屋と紙一重の新聞社だ。ひょっとしたら、辰野グループと連携している可能性もある。もっともたちの悪い奴等に絡まれてしまったということだ。
君はわかっているかどうかわからんが、この手紙で、確認させていただきたいと言っているのは、事実ではなくて、この情報をいくらで買い取るか?ということだ。」
神谷副社長はそう言うと、煙草に火を付けた。より一層渋い顔つきになった。
「副社長・・・説明させていただきます・・・、実際に、わたくしは下山さんと数回接触して、保養所の契約を締結したのは事実ですが、それは、営業の土田常務の秘書からの紹介で下山総業社長としての下山さんと面会したのであって、総会屋グループということは全く認識しておりませんでした。
また、実際の物件の下見も総務部の山本課長に行かせました。写真とそのレポートでは年間使用料に対してまったく問題無く思われました。その結果、契約を締結したもので、取り引き自体は後ろ指を差されるようなものではなかったと思っていました。」
「そうか、土田か・・・。」
しばらく、沈黙が流れた。

「岡野君、これは君だけではなく、経営本部の私が狙われたのかもしれないな。」
神谷副社長は声をひそめてそういった。
私はすべて悟った。
「はめられた、ということですか?」
「・・・岡野君、うかつだったな。」
このままゆけば、次の6月の株主総会で神谷副社長の社長昇格が妥当と思われていた。
現時点でのナンバー3は土田常務だった。
「山本もグルだったということですか?」
副社長は何も言わずに椅子を回してデスクに背を向けた。
国際経済情報新聞社に金を払ったところで、いつまでもゆすり続けられるであろうし、秘密を守る保証もない。また、その事実自体を他の情報屋に嗅ぎ付けられないとも限らない。
払わなければ、この情報が大手新聞社に売られて、会社がダメージを受け、少なくとも私のみならず管理責任を問われて神谷副社長は職を辞さなければならないだろう。
いずれにせよ、特をするのは土田常務と山本課長だった。
当然、彼らは証拠となる一切の取り引きは先方との間で行っていないであろうし、レポートも差し替えられていることだろう。

山本課長にはいままで、部下として目をかけてきたつもりだっただけに、言いようのない暗澹たる気持ちになった。
「岡野君、君しばらく名古屋へでも行っていてくれないか? 営業所の所長付きということで。ほとぼりがさめたらなんとかするから。」
(副社長はなんとか総会屋とトップ屋は押え込んで、社内問題として私の異動で収めるつもりなんだな。)
私はそう直感すると、 副社長室を辞した。


4.打ち明け話

「ふうん。そういうことって本当にあるんだ。」
美樹はそう言って傾けたグラスを見つめた。
「でも、あなた、見た感じ、慎重そうなのにどうしてそんな簡単に契約しちゃったの?」
「それは、」
そのとき、私は気づいた。
「そうだ、志賀高原の山荘だったからなんだ。僕は昔スキーのレースをやっていて、志賀には特別の思いがあったからなんだ。」
すこし、ほろ苦い思いがした。
「きっと、素敵な思い出なんでしょうね?」
「素敵・・・、悲しいくらい素敵な思いだ。」
私達はしばらく沈黙した。
「個人的な感情を無意識に仕事に持ち込んで、結果足をひっぱった、ってことかな?」
「後悔してるの?」
「いや、後悔はしない主義だ。」

「奥さんいるんでしょ?」
「・・・昔、居たというべきかな。彼女は専業主婦には向いていなかったようで、息子を連れて出て行った。」
「そうなんだ。」
「もう別の人と暮らしているよ。」
「余計なことを聞いてしまったかしら。」
彼女は言葉を一旦切って、
「・・・実はねぇ、わたしも子供がいるの。女の子。4歳なんだ。」
わたしは少し意外だった。美樹がとても若く見えたので。
「名前は?」
「名前は、春菜、春の季節の野菜の菜って書くの。はるちゃんっていうんだ。」
「そうか…はるちゃんか・・・。いい名前だね。」
「だんなは沖縄のクラブで歌っていたときに知り合った、アメリカ兵だった。もう別れちゃったけどね。」
「そうなんだ。」
「で、実家のある名古屋へ帰ってきたってゆうわけ。昼間は英会話教室の講師をやってるの。」
「でも、きみの歌はほんとうに素晴らしい。メジャーになれると思うけど。」
「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいわ。」
美樹はうれしそうに、まるで少女のように笑った。
「でもね、35で子持ちで…オーディションってわけにもゆかないし…食べて行くのが悲しいけど先決なの。・・・でも、わたしは本当に歌うのが好きだし、それを認めてくれる、あなたみたいな人がいてくれるだけで、とても幸せになれるわ。」
私達はパブ・イリュージョンが閉店の時間になるまで話をしていた。
「もうそろそろ、看板ですが・・・」
バーテンの広瀬さんがそう告げた。美樹はわたしのほうを振り向くと、
「そうだ、今度の日曜の夜、 デートしない?」


5.約束不履行

「あ、もしもし、お兄ちゃん?今日新聞で見たよ。ナショナルフーズ総務部担当ってお兄ちゃんのことでしょう?」
本来の仕事では使うこともめったにないビジネスホンの向こう側の声は、しばらくあっていない妹の郁美だった。
「ああ、これから捜索を受けることになるだろうな。おまえには申し訳ないとおもってる。せっかくテレビのワイドショーのレポーターとして売れてきたところだったのに。」
郁美は以前よりタレント志望であったが、若いうちは芽が出ず、35を過ぎてレポーターでレギュラーを持てるようになっていたのだった。
「ううん、いいのいいの。いつもは取材する側が、『お兄様の件はどのように思いますか』なんて取材されたりして…どうせ、そんなのちょっとの間だけだし、お兄ちゃんが悪いことをするわけないし、そんなことより、きっとお兄ちゃんのことだから、深刻に眉間にしわを寄せて、万が一遺書でも書いてやしないかと思って電話したんだ。」
まさか、遺書の準備はしていなかったが、深刻な表情であったことは事実だった。
9月19日のその朝、朝刊各紙は総会屋への利益供与事件として、大手都市銀行の摘発をスクープすると同時に、わたしの会社をふくむメーカー各社も、海の家、山の保養所を隠れみのにした具体的な手口で利益供与していたと報じた。
国際経済情報新聞がタイミングを見計らって各社に情報を提供したのは間違いなかった。
神谷副社長からかなりの金は渡っていたはずだが、それを上回る金額が他から動いたのか?あるいはそのこと自体またスキャンダルとなって3面記事をにぎわすことになるのか?

「とにかく、お兄ちゃん、自分の信念に背いたりしたのじゃないんだから、悩まないでね。万一逮捕されたって、お兄ちゃん自身が誰かにものすごく迷惑をかけたってわけじゃないんだから。そんなことひとりで背負っちゃだめだよ?会社なんて最後はトカゲのしっぽきりして、冷たいものだよ。
そうそう、お兄ちゃんの友達の大島さんだって去年商社やめて、いま、移動販売の焼き鳥チェーンの商売を始めて、評判になってるじゃない? そうだよ、焼き鳥でもなんでも一生懸命やればちゃんと生きて行けるんだからね。」
「ああ、ありがとう。郁美の励ましの言葉はとてもうれしいよ。…これからしばらく迷惑がかかるかもしれないが、よろしく。」
「迷惑どころか、もしお兄ちゃんひとり悪者にされるようなら、事情を全部教えてくれればすっぱ抜いて逆襲してやるわ。じゃ、くれぐれもファイトをなくさないようにね?・・・わたしたちみんな守れなかった約束があるんだから・・・。」
その晩、久々にイリュージョンが休みだったため、美樹と会うことになっていた。

5月に名古屋港の夜景を見ながら食事して以来、店以外で数回会っていた。彼女は苦労を愚痴ることもなく、いつも、素直で純真だった。
子供の教育のこと、歌に対する情熱、そして、春菜ちゃんを出産する前に夫がアメリカへ帰国してしまったこと、など、いろいろ話をしてくれた。
私も別れた自分の家族のこと、仕事のこと、むかし情熱を燃やしていたスキーのことを彼女に話した。こんなに色々な話を一生懸命人に話したのは久しぶりのことだった。

私は自分の心のせつなさも手伝って、彼女に惹かれていた。
「今日、新聞見たわ。ついに始まったね。」
「ああ、明日からこちらにも捜査の手がのびてくるだろう。」
アペタイザーの食事の手を止めてわたしは答えた。
「そんな深刻な顔して・・・。」
「ああ、ごめん、今日妹からも電話があって、思いつめるなとしかられたばかりだった。」
「そう言われたって、あなたの性格、そう簡単には変えられないものね…。でも、そうやって言ってくれる人がいるのだから、自分は幸せだって思わなくっちゃ。・・・最悪の状況で声をかけてくれたり励ましてくれる人がいるって、素晴らしいことじゃない?」
美樹は少女のような笑顔をうかべた。

「元の奥さんからも連絡あった?」
「いや、こちらから電話した。こんなとき、別れたとはいえ心配はしてくれるものなんだな。」
「息子さんにはお父さんだから。赤の他人の事件という訳にはいかないわ。」

食事は美樹が予約した一流ホテルのフルコースディナーだった。すこし気持ちがほぐれた反面、いつ又このような食事ができるか?といった思いからか、ワインを空けたもののあまり酔いはまわっていなかった。

食事の後、いつもはそのままタクシーで美樹を送って行くのだが、美樹はロビーの前を横切ると、こちらを振り向き、
「きょうはここに部屋取ってあるんだ・・・。」
といった。


6.一夜(ひとよ)の夢

「いままで、何度もチャンスがあったのに、ホテルに行こうとか、部屋に来いとか、言ってくれなかった。・・・もしかしたら、わたしはオンナって見られてないのかなぁ、って思ってた。」

「いや、それは・・・。」
ここは妙な言い訳をするよりも正直が最良の方策だった。
「こんな状況の僕には美樹を誘う資格なんてないし…。」
「これから先、もっと困難なシチュエーションだからね。でも、それを考えなかったら、オンナとしてみてくれている?」
「当たり前だ。美樹にとても惹かれている。歳を取ったって恋することはあるさ。・・・でも、だからといって、」

「簡単に誘うなんてできない、ってことかな?」
彼女は微笑んでソファにすわった。
「あなたみたいな人、初めて会ったわ。世の中の男たちなんて、クラブの歌手なんてどうせあばずれだろうって、すぐ、押し倒そうとする人たちばっかりよ。・・・岡野さんて、すごくストイックだよね。」
「そんな、格好のいいもんじゃないよ。…」
そういった瞬間、私の唇は彼女のやわらかな唇でふさがれていた。
「あなたはとても疲れているわ。…今夜はわたしがずっと一緒にいてあげるから・・・。」

はじめての口付けの後、美樹はレースのカーテンを引きながら言った。
久しぶりの状況にすこし緊張したが、私はゆっくりとワイシャツを脱ぎ始めた。
「ちょっと待って。言っておかなきゃならないことがあるの。」
私は手を止めた。
「え、なに?」
「じつは・・・ほんとうはわたし、あなたに何もしてあげられないの。」
「え、何もって?」
「子供を産んだ後ね・・・重い病気になって・・・手術をして治ったのだけれど・・・男の人と・・・できなくなったの。」
「本当かい?で、いま身体の具合はどうなんだ?病気は問題ないのか?」
美樹は硬い表情を和らげて、
「このこと打ち明けて、すぐにわたしの身体を心配してくれたのは、あなたが初めてよ。・・・病気のほうは定期的に血液検査してるけど、大丈夫みたい。」
うしろで縛っていた髪をほどきながら、美樹は続けた。
「だから・・・ほんとにできることは、あなたと一緒にいてあげることだけ。歌を歌ってあげることだけ。大人のオンナとしてあなたを愛してあげることができないの。」
美樹はこみあげてくる涙を押さえることができなくなっていた。そして、私に抱きついてきた。
「でも、あなた本当に疲れきっていた。 今夜だけでいいから、どうしても一緒にいたかった。」

私達は服を着たまま、ベッドの壁によりかかって腰まで毛布をかけて寄り添っていた。私は美樹の肩を抱いて、美樹はわたしの肩に頬をあずけて、小さな声で Saving all my love for you を歌ってくれていた。
歌が終わると、彼女は耳元でささやいた。
「あなたはあなたのことを考えてくれる人たちを裏切らないで、あなたらしく、正直に、誠実にすればいい。何も苦しむ必要はないわ。…東京へ帰って・・・そうすればいいのよ。・・・ずっと名古屋に逃げていられるわけじゃないでしょ?後悔しない生き方があなたのやり方、って話してくれたじゃない?」
私は美樹の肩にまわした腕に力をこめることで、それに応えた。

「美樹、きみは?」
「あなたは人の心配をしてる立場じゃないでしょ?」
「でも…。」
「わたしは歌をもっと勉強して、子供をちゃんと育てて…。やることがたくさんあるの。大丈夫よ。心配しないで。」
初めて会ったときと同じ、あどけない笑顔をみせてくれた。

私は彼女の肩をやさしく抱きしめた。
心が和らいでいった。現実に自分に降りかかっていることはさして大きな問題ではないように感じられた。
窓の向こう側には多くの人々の営みをたくさん包みこんだ、名古屋の夜景が見えた。

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岡野慎太郎の遠い記憶の物語


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