見出し画像

君たちはどう生きるか


人生の答え合わせ

まず初めに、
この映画はジブリ作品、宮崎駿監督の最新作にして原点であり、総集編であると感じた。

宮崎駿自身の自叙伝的な物語と言われるだけあって、宮崎駿という人間が描きたかった世界が、いや見えていた世界が、ありありと広がっていた。

私はこの作品に出会えたことで宮崎駿という人間と相対することが出来た気がした。
そして彼をさらに敬愛した。

同類の映画ジャンルとしては
千と千尋の神隠し、そして君の名は、すずめの戸締り
と同じ系統である。

そして、そのすべてが表現されているといったところか。


新海誠監督が宮崎駿監督に感銘を受けたと語られていたことも体感として感じられる作品だった。

古き良きジブリらしい懐かしさもありつつ、風の時代も捉えた最先端の内容でもあり、
時が今に集約されていることが物語全体を通して感じられるものとなっていた。

まさに時間の全てが詰まった作品である。

登場人物に声という命を吹き込むキャストの皆さんも、
木村拓哉さんに柴咲コウさんに菅田将暉さんにあいみょんさん
(普段テレビ画面を通しお顔を拝見して知っているのであえて名を挙げております)
人として尊敬し、大好きな方々ばかりだ。

宮崎駿監督の人生を通して出会ってきたスターたちとタッグを組んでいることも含め、
ご縁のつながりといった意味でも
全てを包含し、集大成といって過言ではない作品だと感じた。


あえて、
この作品を見た人にだけ伝わる言い方をするなれば、
目に見えるものしか信じない人にとって、この作品は“眞人がインコになってしまったようにしか見えない“作品であろう。

しかし、目に見えないものを信じる心構えさえすれば、たくさんのものが見えてくる作品になっている。

きっと見れば見るほど、
見える世界がどんどんと
広がる作品になっている。


折に触れ、この作品を見ていきたいし、
見るごとに増える視点を楽しみたい、命ある限り。

きっと
風の谷のナウシカや千と千尋の神隠しのように
後世さまざまな考察がなされ、
論じられてゆく作品になることは明白だ。


今この時代で生きられていることに
感謝したくなる作品だった。



ここからは、この作品に見つけたワクワクの視点を展開していきたい。

ワクワクリエーターとして、作品のワクワクした部分をたくさん述べたいのだ。

楽しむ心構えの出来た方は、ぜひ読み進めていただけると嬉しい!


ではさっそくストーリー展開から見えた
時代らしさについて。


今までの時代背景で描かれがちだったのは
貧困でいじめられ、それをきっかけに“反骨精神”を奮い立たせ、持っていない貧しさから立ち上がるものだったように感じる。

しかし、
今の風の時代は、富みをやっかまれることで“疑心暗鬼”となり、幸せとはなんだ?と、持っていることの孤独や葛藤が描かれていた。

時代に沿って描かれるものが変わっていることに時代の変わり目を感じられた。

さらにその極め付けが、
自分の手で自分を傷つけ、
それが1番の傷になっていた描写だ。

なぜそれをしたかは分かっていないが、自傷したことは自覚している。

そしてそれこそが証となり、心を繋ぐ鍵となってもいた。

この描写から、皆平然と生きているが心には同じ傷を抱えているものであり、その傷をあえて具現化したものにも思えた。


ここからどんどんと部分的な、
場面場面で感じた解釈を加速させてゆく。


今は令和なので、眞人のお父さんが姉妹と結婚している形に違和感を抱くかも知れない。

けれど描かれている時代背景を踏まえると不思議なことは一つもなく、当時は当たり前の流れだったのだ。
今みたいに恋愛結婚なんてほぼ存在し得なかった時代の結婚とは、家同士の縁結びを表す。

そう考えたら、嫁いだ娘(姉)が他界したのであれば、嫁ぎ先との縁が弱くなるのは必然であり、両家の縁を結び続けるには、妹を嫁がせるのも道理にかなっているというわけだ。

いつの世も、その世なりの道理が有る。

さらになつこさんとの結婚の内情に迫るならば、
”姉が嫁いだ先の旦那さんを素敵な人だと思っている妹“にフォーカスを当てると、姉との関係が良好な証だし、
旦那さんにフォーカスを当てると、妻のことを愛していたからこそ、妻の家族にも愛と信頼がある証拠、その結果だと言えるのではないだろうか。
命を終える姉にフォーカスを当てても、自分の命がなくなるという大前提があるのだから、大切な妹、そして愛していた旦那さん、互いに信頼出来る相手だからこそ安心して託すことが出来るのではないだろうか。

以上の視点からも、改めて今回の物語における人間関係は完璧な描かれ方だったように思う。



細部を話し出すとキリはなくなるのだが、、笑
せっかくなのでもう少し。


きりこさんという名前、そして姿や声が違う中でもその存在を、眞人は感じとった。
確信をもって理解したのは、水を飲んだからだろう。

これは千と千尋の神隠しでも有名なシーンとリンクしている。
それは、消えかける千尋がハクに貰ったおにぎりを食べることで存在をとどめるシーンだ。
コレは民俗学的にちゃんと理由がある。

日本で最も有名な神話である古事記にも描かれているもので、“よもつへぐい”という。

イザナギとイザナミという日本神話でも最も有名な夫婦、妻が亡くなり黄泉の国へいってしまうと、夫のイザナギは妻の死を受け入れられず黄泉の国に妻を連れ戻しにゆく。
しかしイザナミはすでに黄泉の国の食べ物を食べてしまっていたため元の世界には戻れないという話だ。

異世界へ入り、その世界に溶け込むには、その世界のものを食べる(体内に入れる)必要が有り、そうすることで身体が異世界を受け入れ順応する。

この行為、ある種の儀式が、異世界へ入る一つの境界線で有ると言える。


そう、だから眞人は、あの水を飲んだことにより、全てを感覚で理解したのだ。

その世界の住人になったから、その世界の暗黙の了解を察知できたともいえよう。


ここから先はまた時間の許す時に、、

最後までお読みくださりありがとうございます!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?