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祈りの意味

安らげる居場所は

 家族のために私は昨夏から単身赴任になった。そして、次男は1学期だけの東京生活を終えて、別の学校に通うことになった。
 新しい居場所。私も全く無縁の場所でもなかったので、安心して過ごせると思っていたのに、そうではなかった。
 この1カ月あまり、ずっとそういうことでもやもやが続いていて、一度はここに連日のように怒りの記事をあげていたけど、ひょっとしたら改善するかも、という期待が僅かに持てた時期もあって削除した。

 でも、やっぱり変わらなかった。一方的な暴力と暴言。この年齢でそういうことが平気でできてしまう。怒りよりも嘆きの気持ちの方が大きかった。心の教育を重視していることに共感を覚えて門をたたいたはずなのに、それは建前でしかなかった。
 学校にも言い分はあるのだろう。だけど、実際の子どもたちの振る舞いは、そうした教育が届いていると、神様の前で、マリアさまの前で胸を張って言えるだろうか。ただ、大半の人たちがそれをよしとしているなら、私は自分のこどもを守るために決断しなければならなかった。ここを去るということを。我が子に学校への未練がなかったことが唯一の救いだった。

毎日祈っています

 学校からの連絡は途切れ途切れ。それについても、もう怒る気力も失せた。休んでいる間にこちらの指摘を受けて、こどもの声が聞きたいということもあって、話をしてもらったこともあったが、今こういう結果になったことを考えれば、決して真摯な対応だったとは言えないと思う。これも先生には言い分はあるだろうけど、子どもをただ傷つけ、絶望させただけだということは分かってほしい。分かりたくないかもしれないけど。分かっているなら、こんな状況を許すべきではなかった。どうして、悪いことをした子、人の嫌がることを言ったり、したりした子を怒る、というシンプルなことができなかったのだろうか。何かに忖度しているのだろうか。それが神様が言う「赦す」ということなのだろうか。違うだろう。「赦し」の意味をはき違えた結果が、上の学年の空恐ろしい振る舞いにつながっているのだ、ということだと私は考えている。

 これも思い出したように学校から学習プリントが届いた。先生からの手紙も入っていた。
 「毎日祈っています」
と。何を祈ってくれているのだろう。ただ、健やかに過ごしたかっただけなのに、そんなことすら守ってくれなかった人たちが、我が子のために何を祈るのか。祈るくらいなら、もっと行動するべきことがあったのではないか。行動したかったけどできなかったのか。最後まで分からなかった。

I'm still alive today.

 最近、ずっと「パリピ孔明」というドラマを楽しみに見ていた。三国志はもともと好きだが、劇中歌のクオリティーが本当に高く、制作陣の本気を感じることができた良作だった。

 最終回、ずっとフルで聞きたいと思っていた作中の歌姫マリア・ディーゼルの「I'm still alive today」がついにフルで流された(マリア・ディーゼル 『I’m still alive today』 - YouTube)。バックでライブの歌声が遠く響く中、別れを覚悟した孔明の涙にこちらも泣けた。

 アヴちゃんの歌詞もよい。
 夢見てた筈の明日を我が子も手に入れに行けるだろうか。
 あれだけ毎日、学校の行き帰りに祈っていたマリアさまが、本当に思っていてくれるならきっと叶うと信じたい。
 今度こそ。

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