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ヘダーヤトとともにイスファハーンを歩く(4)

(3)より続く

大寺院(マスジェデ・ジャーメ)

 イマーム広場から北東に1~2キロ離れたところに、イスファハーン最古のモスク、マスジェデ・ジャーメがある。ヘダーヤトははじめ拝火教寺院だったと記しているが、ガイドブックでは創建は8世紀とあるだけで、ゾロアスター教のことは書いていない。ちょうど昼の礼拝の時刻となったため、スピーカーから大音響でアザーンが聞こえてきた。モスクの周囲はバザールになっていて、どこが入り口なのかよくわからない。うろうろしていたら中庭に出てしまった、という感じだった。

 長方形の中庭を取り囲む形で、四方に巨大なエイヴァーンが設けられている。一つ一つ少しずつ形が違うが、どれもタイルの装飾が美しい。中庭の中央には水場があり、手足を清めた信徒たちが、北東のエイヴァーンの下に行っては祈り始めた。南西のエイヴァーンの横にある入り口から礼拝堂に入っていく人もいた。お祈りの邪魔はしたくないし、何となく気がねして日傘を差すこともできず、わずかな日影を頼りに壁づたいに歩く。北西のエイヴァーンの両側に、巨大なホメイニー師(左)とハメネイー師(右)の写真が飾ってあって、不謹慎ではあるが、三代目になったらどうするんだろう、どっちかをはずすんだろうか、などと考えてしまった。

北西のエイヴァーン

 このモスクから、イマーム広場まで、バザールがずっと続いているというので、確かめてみることにした。通路とその両側の店全体が屋根で覆われているという、中東の街によくあるパターンだ。結構うねうねとした道なので、しばらく行くと方向感覚がまったくわからなくなる。店は衣料品、食品、雑貨、貴金属など様々だ。女性用の水着を売っている店があったのには驚いた。
 天井の所どころに、明かり取りの小さな丸い穴が空いていて、そこから光が差し込んでくる。光が当たっている部分だけ、ほこりがはっきりと見える。80年前とかわらず、「市場の迫持の小窓から一条の光線が射し込み、立ち籠めた埃の渦を浮かび上がらせて(p.25)」いることに感動する。
 小窓の下を通るたび、自分がいかにほこりだらけの所を歩いているか、否応なく認識させられるわけなのだが、でもいいこともある。たいてい、その小窓の下には鳥かごが吊されており、小鳥が素晴らしい声で鳴いているのだ。イランでは他の街でもこうした小鳥たちをよく見かけた。このバザールもそうだし、他でも、相当環境の悪い所に鳥かごを吊しているので、小鳥たちも楽じゃないだろうが、でも、日本のショッピングアーケードのように作り物のバックグラウンドミュージックを流しているよりは百倍も贅沢だと思った。

 それにしても、すぐ近くにあんな立派なモスクがあって、しかも昼の礼拝の時刻だというのに、バザールの中は売り手と買い手でごった返している。大八車に商品を満載して運んでいるお爺さんたちにどんどん追い越される。何だろ、みんなあんまりお祈りしないのかなあ。
 途中から結構分かれ道があったのを、適当に進んできてしまって、いい加減まずいのではないか、ここらでいったん外に出て現在地を確かめないと、もう限界、と思った時、突然向こうにイマーム広場が見えた。やはりこのバザールはイマーム広場に直結していて、どうもうまく歩けたらしい。
 早朝から相当な距離を歩いたのと、午後の暑さがこたえるので、ホテルに戻って休むことにする。

王の広場(イマーム広場)


 午後七時過ぎに、再びイマーム広場に来てみた。日が暮れかけて、風がさわやかだ。
 広場は日中とまるで様子が変わっていた。大勢の家族連れが夕涼みに来ている。ポットのお茶を飲みながら、芝生やベンチに座ってくつろいでおしゃべりをしている人たち。早朝エアロビ軍団がいたイマームモスクの前では、ヒジャーブ姿の女性たちが円陣バレーを楽しんでいた。子供たちは観光客用の馬車に乗せてもらっておおはしゃぎ。平和で、穏やかな一日の終わりだった。

 ヘダーヤトが見たら、きっと暖かい気持ちになるのと同時に、ある種の寂寥を覚える光景だろう、とも思った。

 旅行記を読んだだけで、ヘダーヤトという人が、魂に傷を負った人だったということがわかる。どのような体験かはわからないが、何か大切なものを失ったことがあった人だったろうと。そしていつもどこかに帰りたいと願っているのに、どこに帰ればいいのかわからない、という気持ちを背負った人だったろうとも感じた。

 旅行記の中で、彼はアラブ人を、そして西洋人を痛烈に斥け、イスファハーンの最高の芸術を作り上げたイラン人を讃える。しかしその一方で、彼は実際に周囲にいる現実のイラン人をひどく冷めた目で見ている。彼はアーシュラーの追悼をする子どもに薔薇水をふりかけられた瞬間、1メートルも飛びすさって避けようとする。つまり、彼は自分が生きている時間、空間において、どこにも帰属意識をもつことができない人だったのではないか。彼が心を寄り添わせることができるのは、過ぎ去った17世紀の芸術家達か、はるか昔、まだイスラームが到来する前にイランに息づいていたゾロアスター教徒だけだったのではないか。そんなことを考えた。

 私たちは今回訪れることができなかったのだが、ヘダーヤトはイスファハーン訪問の最後に、近郊の山頂(火殿山)にあるゾロアスター教神殿跡、アーテシュガーフを訪ねている。
 友人が山を先に降りてしまった後、彼はひとり、神殿の中で新聞の切れ端に火を点した。新聞は、「炎を上げて燃え立ち、すぐに灰になってしまった(p.35)」という。
 このような体験をした後、ヘダーヤトは旅行記の最後をこんな風に締めくくっている。「人間がある町と別れを告げる時、思い出や感傷の一部、自らの存在の幾分かを其処に置いてくるのである。(中略) いざ帰りなんとする今、私は何かを喪失したかの如くに感ずる。或はこう言ってもよい。何かが自分の中から減じて行く様であると。それが何であるかは分らない。多分、我が存在の一片をかしこなる火殿に残してきたのであろう(p.39)」。
 イスファハーンの名所旧跡をくまなく見た上で、最後に彼の心に残ったのは、ゾロアスター教神殿の中で新聞紙が燃えるかそけき炎と、後に残ったその灰だった。

 日が暮れてきた。空が薔薇色に染まり、イマーム広場のアーケードに灯りがともりはじめる。風がいっそう涼しくなる中、人々がのんびりと群れ集う。
 広場に面した一軒の土産物屋の店先で、夫が小さなマグネットが飾られているのに気づいた。ヘダーヤトが訪れ、火の儀式を行ったアーテシュガーフのモチーフのマグネットだった。暮れなずむイマーム広場の一角で、人々をひっそりと見つめるその小さなマグネットのうちに、ヘダーヤトの魂の一部がしずかに残されている気がした。(2015年8月7日・8日)

(文中の引用はサーデク・ヘダーヤト著、中村公則訳「エスファハーンは世界の半分」『ハルブーザ』(225)ハルブーザ会、1991年、pp.2-39.による)


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