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中東映画万華鏡02「エジプト映画とラマダーン」

 2012年の8月、私は久しぶりにエジプトの首都カイロを訪れた。早朝にホテルでチェックインしていると、ロビーに大きなランプが飾ってあるのに気
がついた。「ファヌース」と呼ばれる、ラマダーン月の飾りものだ。

断食月は祝祭月

 イスラーム暦9月(ラマダーン月)に、ムスリムが日中の断食(斎戒)をすることは広く知られている。ラマダーン月は、預言者ムハンマドに神(アッラー)の最初の啓示が下された「聖なる月」と考えられており、ムスリムはこの一ヶ月間、暁の礼拝(日の出前の、夜が白み始める時刻)から日没までの間、飲食・喫煙・性交渉などを断ち、身を清める。
 日が沈んでからは、神に感謝を捧げ、家族・親族や友人たちと「イフタール」という断食を解く食事を共にする。日中の苦しみから解放され、晴れ晴れとした気分になる瞬間だ。食事の後は、皆でおしゃべりをしたり、夜遅くまで開いている商店をひやかしたり、そぞろ歩きを楽しむ。この夜の時間がなんとも楽しい。断食というと、「ひたすら苦しい」という印象があるかもしれないが、実は一ヶ月間の祝祭なのである。

 ラマダーン月のカイロの街は、いつもと違う雰囲気になっていた。商店の軒先には、ランプやイルミネーションが飾り付けられ、お祭り気分を盛り上げている。レストランは一部の観光客用の店以外は日中閉まっていて、夕方から営業を開始する。イフタール用の特別なメニューを出す店もある。菓子店では様々な菓子が売られ、人々が夜の食後の楽しみにと買っていく。
 夕方になると、通りで少年たちが行き交う人々にナツメヤシを配り始める。断食を解く際に、まずナツメヤシを一つ口に入れ、飲み物を飲んでから食事をとるのが、預言者に由来する慣習とされているのだ。やがて日没のアザーン(礼拝の知らせ)が聞こえてくると、断食終了。人々はレストランで、あるいは家庭で、一斉に食事を始めるのである。

エジプト映画の中のラマダーン

 ところで、エジプトは20世紀には「ナイル川のハリウッド」と呼ばれるアラブ世界随一の映画大国であった。2011年の革命以来、制作数が落ち込んでいるが、現在でも年間に20~40本前後のアラビア語映画が生み出されている。
 そのエジプト映画には、ラマダーン月が物語の背景となっている作品があり、それらからは、ラマダーン月に寄せられたエジプト人の思いを見てとることができる。ここで革命前後に作られた2本のコメディ映画を見てみよう。2本とも、主演はアフマド・ヘルミー、どこにでもいる気さくな青年といった風貌の、エジプトの人気俳優だ。
 まずは彼が特殊メイクで臨んだ2011年の「エックス・ラージ」。エジプト映画界の巨匠、シャリーフ・アラファ監督の作品である。主人公のマグディは人気漫画家。仕事は成功しているが、一人暮らしで、親しい親族といえば叔父のアズミーだけ、という淋しい生活を送っている。実はマグディは超肥満体で、のべつまくなしに何か食べているタイプ。女性達は彼に友情は感じるものの、恋人の関係にはなれない。
 そんなマグディが、フェイスブック上で、幼い頃の友人ディーナと知り合う。物語では彼女に恋心をつのらせるマグディのドタバタぶりが描かれていくのだが、重要なのはここでラマダーン月に入るということだ。思いにふけるマグディが深夜に自宅マンションに戻ってくると、入り口にランプが飾り付けられている。「明日からラマダーンか!?」驚愕したマグディは、急いで門番に食べものを買いにやらせる。
 ここに一瞬、通りで太鼓を打ち鳴らしながら歩く男性のショットが入る。これは「ミサッハラーティー」という、起きて断食前の朝食(サフール)をとるよう皆に呼びかける「ご近所の目覚まし係」だ。そして室内では、あわてて大量の朝食をむさぼるマグディ。暁の礼拝を知らせるアザーンが聞こえ、食べるのを泣く泣く諦めて礼拝する様子がコミカルに描かれる。
 このようにこの映画は、主人公の特徴を表現する際にラマダーン月という背景をうまく活かしているのだが、それが最もよく現れているのが、夜、マグディがひとりマンションのバルコニーにたたずみ、パンをかじりながら、近所の家を眺めているシーンだ。開け放たれた窓から、家族や友人たちと豪華なイフタールを楽しむ人々の姿が見えるぶん、マグディの淋しさや孤独感が強く際立つ。ラマダーン月が、人々の絆が深められる月であることを思い起こさせるシーンといえよう。

「エックス・ラージ」と「黒い蜂蜜」のDVD

「神の食卓」と助け合い

 次に、「エックス・ラージ」の1年前に制作された「黒い蜂蜜」(2010年)を見たい。この映画でアフマド・ヘルミーが演じるのは、幼い頃移住したア
メリカから、久しぶりにエジプトに帰国した青年マスリーだ。マスリーはカイロで様々なトラブルに巻き込まれ、お金とパスポートを失ってしまう。食べものがなく絶望したマスリーが行きあたったのが、ラマダーン月に通りに出現する無料のイフタール・テーブル、通称「マーイダ・アッラフマーン」(神の食卓)だ。
 実際に私も街中で多く見かけたが、ラマダーン期間中、経済的に余裕のある個人や団体は、お金を出しあい、路上に机と椅子を並べ、誰でもイフタールが食べられるよう食事を提供する。長らくアメリカで生活していたマスリーはこの風習を知らず、「メニューはないの ?」「みんな同じものを食べるの?」などと聞いてしまう。そして食後に主宰者に「これしかないんだ」と最後の持ち金を差し出すが、主宰者は「神の報奨で十分さ。ラマダーンおめでとう」と受け取らない。マスリーはこの後さらに、貧しい人に食糧を配る女性にも行きあう。
 ラマダーン月に、ムスリムは常より道徳的にふるまい、貧しい人々を助けることが推奨されており、マスリーはこうした経験を通して、「助け合い」というエジプト社会の一つの側面を知っていく。エジプト映画では、このような形で、ラマダーン月が断食を通して自らの信仰や人々との連帯を確認する月であることが、さりげなく示されているのである。

夕暮れのカイロで

 2012年8月のカイロに戻ろう。
 とある夕方、私は友人の車でイフタールのレストランに向かっていた。ところが途中でタイヤが一つ、パンクしてしまったのである。友人は足が悪く、私も車は不慣れなので、どうしよう......と思った時、どこからともなく男性が四人、わらわらと集まってきて、何も言わずえっさほいさとタイヤを交換してくれた。きっと彼らも一日の断食で疲れていただろうに、そんなことを感じさせない笑顔だった。
 ラマダーン月は、ランプもイルミネーションも、イフタールへと急ぐ車の渋滞も、空腹のあまりけんかしている人々も、夜のにぎわいも、特別なテレビ番組やコマーシャルも、ムスリムに配慮して閉店しているキリスト教徒の酒屋さんも、何もかもがとても印象的だった。が、夕闇せまるカイロの街で、少しだけ涼しい風に吹かれながらタイヤ交換を眺めていた私は、これこそが、たぶん一生忘れられないラマダーン月の思い出になるんだろうな、と思った。

(2019年の『東京外語会会報』No.147に掲載した文章を修正した文章です)

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