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ヘダーヤトとともにイスファハーンを歩く(3)

(2)より続く

シェイフ・ロトフォッラー寺院(マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー)

 ホテルに戻って朝食をとった後、今日の観光をスタートさせる。まずはイマーム広場でシェイフ・ロトフォッラー寺院へ。アッバース1世が、後に義父となるレバノン人法学者 、シェイフ・ロトフォッラーを迎えるために造営した、王族専用のモスクである。
 チケット売り場には2人の男性が座っていた。うち一人が見たこともない程美しい青い目だったので驚いた。イランには色々な民族の人がいるから、青い目の人がいてもおかしくないのだが、何か虚を突かれた感じだった。チケットを買って入り口を通る。もぎりのお爺さんが、私たちを見て興奮して、何度も何度も握手を求めてくるのには閉口した。お爺さんから逃げるように廊下を進む。曲がる。進む。また曲がる、と、その瞬間思わず声をあげざるを得なかった。突然、巨大なドーム空間にまろびでたからだ。

 何という大きさ。
 何という荘厳さ。

 ドームの内側は全体的には金色の蜂の巣のような模様に見える。その蜂の巣の一つ一つが、細かい幾何学模様で飾られている。使われているのは濃い青、薄い青、そして、上の方にある透かし彫りのような窓から入ってくる光を受けて、金色に輝く黄色のタイル。
 これはやばい、本能的にそう思った。もしここで、美声の朗唱者がクルアーンの一節でも詠じたら、その声がこの空間に満ち、その瞬間イスラームに入信してしまいそうだ。文字通り、魂を奪われるというのはこういうことだ。私もこれまでに世界中で数々のモスクを訪れたが、こんなにも「もっていかれそうになった」のは今回が初めてだった。銀河の中にたった一人放り出され、漂っているような気分になるのだ。
 ミフラーブの上を探すと、ヘダーヤトの言う通り、このモスクを作った職人と作られた年代がタイルに描かれていた 。こんな風に、ミフラーブの上に製作者の名前が書いてあるなんて知らなかった。
 もっと長くいたかった、いや、許されるならずっといたかったのだが、そのうち観光客がぞろぞろと入ってきたのと、あの握手のお爺さんも来てしまったので、余韻を壊されたくなく、退散する。
 外に出てみると、そんなに大きなモスクではないような気がするのが不思議だった。中に入ってみないとわからないものだなあ、と、何か魔術でもかけられたような気分だった。

シェイフ・ロトフォッラー・モスクの天井

王の寺院(マスジェデ・イマーム)

 世界史の資料集に必ず載っている、青いエイヴァーン(三方を壁で囲んだ門)と青いドームを有するモスクである。イスラーム革命前は「王のモスク」だったが、現在では「イマームモスク」という。
 その大きさと、タイル装飾の見事さに圧倒される。ヘダーヤトは書いている。「寺院は神の館である。さりながらその神も、此処に入るには許可証を呈示せねばならない。何故とならば技芸の神々がこの寺院を造ったからである(p.21)」。確かに、この美しさはただごとではない。神ですら居住まいを正さなければ入れないというのは正しい。
 天国にあるトルコ石の宮殿になぞらえたヘダーヤトの格調高い賛美の言葉に比べると、だいぶレベルが落ちるが、私たちがこの時感じたのは、これこそがまさに「世界遺産」の名にふさわしい、ということだった。今回のイラン旅行で、イラン・イスラーム共和国にある世界遺産(文化遺産)を六つ見たのだが、このイマーム広場の、特にこのイマームモスクは、その中でも別格だった。何事もすぐにABC評価にして考えてしまう教員の悲しい性、もしこれらの世界遺産が学生のレポートだったら、おそらくイマーム広場はAプラスがつくはずだ、などと話し合った。(ちなみに同じく教員の夫は、ペルセポリスはAマイナス、テヘランのゴレスターン宮殿はBマイナスだと言っていた。そんな辛口の評価をしていたら、世界遺産が学生だったらかなりの数が単位がとれないのではないかと心配になってしまう)

 入り口を通り、中庭に出る。すると目の前には巨大なドーム状の中央礼拝堂の威容が、と思いきや、実はそうはならなかった。夏の暑い時期だけなのかはわからないが、金曜の集団礼拝の時、中庭で祈る信徒のため、日よけの覆いが一面に拡げられていたのだ。視界が遮られたため、礼拝堂を見た最初の瞬間の「打ちのめされ感」はなかった。もし冬に来て、この日よけがない状態で礼拝堂を直接見上げることができたら、どんなに衝撃を受けることかと思った。
 「そりゃあ、ここでお祈りしたいよなあ」と夫が言った。残念ではあったのだが、確かにこのモスクは信徒のためのもので、観光客のものではない。誰だってこの美しい場所で祈りたいはずだ。あちこちに、無造作に丸められた絨毯が積まれていて、ここが1638年の完成以来、営々と人々の祈りを受け止めてきた場所だということを改めて感じさせられる。そうやって人々は昨日(金曜日)も祈っていたのだ。

信徒のための日よけ

 気を取り直して礼拝堂に入る。内側の高さは38メートルで、修復作業をしているタイル職人のドリル音が反響している。半世紀に一度のサイクルで、全てのタイルを取り替えて化粧直しをするらしい。礼拝堂の一角に、観光客用のタイルの販売所が設けられていた。おいおい信仰の場所で商売していいんかい!と思わずつっこみを入れたくなったが、どうもイランではそこらへんは寛容のようだ。アラブ圏(特にスンナ派)のモスクとはかなり雰囲気が違う。数人のヨーロッパ人観光客のために、モスクの管理人が、一番声の響くポイントで「なんちゃってアザーン」の実演をしてあげている。おいおい今礼拝の時刻じゃないだろうが、とこれもつっこみを入れたくなる。国家が宗教宗教と言っている割には、そこらへんは適当なんだろうか。よくわからない。そんなに上手なアザーンではなかったが(すみません)、それでも神を讃える声はドームに満ち、一瞬の余韻を残して風の中に消えていった。

崇高門(アーリー・ガープー宮殿)

 イマーム広場の見学の最後に、シェイフ・ロトフォッラーモスクのちょうど向かい側にあるアーリー・ガープー宮殿を訪れた。アッバース1世、アッバース2世の時代に造られた高層建築で、王たちは上階のバルコニーから、イマーム広場で行われるポロ競技などを眺めて楽しんだという。
 私たちも王の気分を味わうべく、上階をめざしたのだが、チケットを買ってゲートを通った後、まずは土産物売り場を通過しないと階段にたどり着けないという、「虎の穴」のようなシステムになっている。ようやく階段を上り始めたのだが、あたり一体、ベンジンの匂いが充満している。何事かと思ったら、係員が観光客の落書きを薬剤で一つ一つ落としているところであった。「落書きは犯罪であり、罰せられる」という警告の張り紙があったが、バルコニーに至る階段の壁は、既にびっしりと落書きで埋め尽くされていた。書くというより、壁に彫り込んでいるものも多く、ベンジンで落とすより、いっそのこと上から漆喰を塗ってしまった方がいい気もしたが、17世紀の建造物に滅多なことはできないのかもしれない。一日中、薬剤の匂いを吸い込んでいる若い男性係員が気の毒になった。

 バルコニーに到着。天井を支える柱には、チェヘル・ソトゥーン庭園博物館の時と同じように足場が組まれてしまっている。視界が遮られて邪魔だった。それでもイマーム広場を見下ろしつつ、風に吹かれるのは気持ちいい。ポロ競技以外に、王たちはここからどんな催しを見て楽しんだのだろう。現代ならエアロビを見るんだなあ、と思ったら何だか笑えた。
 バルコニーよりさらに上の階に行くと音楽室があった。壁一面に、水差しや瓶の形をした穴が無数に開けられている。ヘダーヤトによれば、というか、ヘダーヤトの案内人いわく、これは音響効果のためのもので、「扉を閉めておいて楽器を鳴らす。それから扉を開けると暫く楽器の音がこだまして聞こえた(p.23)」という。イスファハーンが「世界の半分」であったことを、一番実感したのが実はこの部屋を見た時だった。もちろん巨大なモスクも十分にサファヴィー朝の富を感じさせてはくれる。しかし、音楽を聴く空間にこれほどまでにこだわれるということ、楽器の音色、その余韻のためだけにここまで出来るということ、その余裕というか、懐の深さに、本当の意味での豊かさを見たような気がしたのだ。

音楽室の壁

 バルコニーに戻ってきてもう一度風を受ける。修復作業用の足場の上から、ヒジャーブ姿の女職人が、柱を伝って音もなくするすると降りてきたのにはびっくりした。ヒジャーブも作業着も黒いので、まるでニンジャである。女ニンジャはしばらくすると、何事もなかったかのように、またするすると柱を伝って上に登っていった。このバルコニーで、下の広場のポロ競技を見ながらも、王たちは、実はあんなような暗殺者におびえていたのかもしれないな、とふと思った。(続く)


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