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ヘダーヤトとともにイスファハーンを歩く(2)

(1)より続く

四十柱宮(チェヘル・ソトゥーン庭園博物館)

 ヘダーヤトが「イスファハーン的で巧妙な冗談(p.17)」と言った、20本の木柱をもつ宮殿である。前庭の池にそれらが映り込んで40本の柱に見える、ということだが、うんまあ、何本か映っていないこともない、という感じだった。時間帯にもよるのだろう。実は半分の柱には足場が組まれて修復中で、脳内で絶えずその足場のビジョンを削除しなければならず、なかなかに落ち着けなかったのだ。池の周りに、頂点が縮れた傘の形になっている「糸杉(p.17)」が立っているとあるが、これは糸杉ではなく、松の木であった。
 木柱が立っている露台(ターラール)の奥の広間が圧巻だった。6枚の巨大な歴史画が飾られているのだが 、これらは世界史教員をしていた頃、教材にしたり、したかった絵ばかりなのだ。チャルディラーンの戦いでオスマン軍のイエニチェリに敗れるサファヴィー朝の軍隊。アッバース1世やアッバース2世がアシュタルハーン朝の君主をもてなす贅沢な宴会。ヘダーヤトによればこれらは、18世紀半ばにイスファハーンをおさえたアフシャール朝のナーディル・シャーが、サファヴィー朝の享楽性と無能さを示すために作らせたものらしい。どのガイドブックにもそのようなことは書いておらず、ただ「サファヴィー朝の栄華を誇る絵画」とあるが、ヘダーヤトの説明の方が筋が通っているように思えた。 

 一番面白かったのは宮殿の外壁に飾られたオランダ人画家の手になる人物像であった。服装からするとヨーロッパ人を描いているのは明らかなのだが、何かこう、表情や仕草が妙にペルシャ絵画風なのだ。オランダからイスファハーンに来てメンタルがやられてしまったというか、ペルシャ芸術に否が応でも影響を受けざるを得なかったというか、そのあたりが想像されておかしかった。

 博物館内はかなりの人だったが、外国人観光客はほとんどいない。東洋人は珍しいらしく、私たちを見ると、みな驚いた表情を浮かべる。「ほらごらん、あれが東洋人よ」と言った風情で、指で指し示す人や、言葉をかけてくる人もいた。少年を連れた父親が話しかけてきた。どこから来たのかというので日本からだというと、父親はつたない英語で、一生懸命中国のことを話し出した。夫が「私たちは日本人なのですが…」と言うと、彼はとても当惑していた。どうも彼の脳内では、日本は中国の一部だったようで、「日本から来たのに中国人ではない」ということが飲み込めない様子だった。 
 イラン人は東アジアの地理や歴史を学校で習わないのかなあ、17世紀のイスファハーンの人々の方が、海外事情に対する知識があったんじゃないか、一つの街が真の意味での国際都市でなくなって、観光都市になるってこういうことなのか、などと初めは考えていたのだが、そういえば日本人もイランとイラクの区別がつかない大人は大勢いる、授業をしても、最後までペルシャ人とアラブ人の区別がつかない学生がいるなあと思い直した。自分だって、この地球上で事情をよく知らない地域はたくさんあるわけだし、と苦笑しながら博物館を後にする。夕方の日射しが一層きつい。今朝からの移動の疲れが一気に出て、今日の観光はこれで打ち止めにすることにした。

三十三洪橋(スィー・オ・セ橋)

 翌朝は早く起きて、「三十三洪橋」を見に行くことにした。イスファハーンのメイン・ストリート、チャハールバーグ通りからつながる、1602年に完成した橋である。イマームモスクより先にこちらを見に行くことにしたのは、昨日の朝、テヘランのホテルを出発する時、フロント係の老人が、ザーヤンデ河の水量のことをしきりに心配していたからだ。私たちがこれからイスファハーンに行くと知ると、彼は、イスファハーンは大好きな街だ、もう4回も訪れた、でも今年はザーヤンデ河の水が少ないと聞いている、と言い、さらに、
  
 「イスファハーンの街にとって、ザーヤンデ河は血管、河の水は血のようなもの。
  もし河に水が流れれば、イスファハーンの街は生きる。水がなければ、街は死んでしまう

と言ったのだった。
 それは英語だったのだが、彼の口から発せられたその言葉はとても美しく、まさに一篇の詩、私がイランで聞いた最初の詩であった。私はこんな小さな(すみません)ホテルのフロントに座っているこんな普通っぽい(すみません)老人から、まさかこんな風な言葉が出てくるとは全く予想していなくて、しばし呆然としてしまった。彼はその後も、ザーヤンデ河にかかる橋があり、夜になるとライトアップされて、光が水に映る様は夢のように美しい光景であることを語った。そういうことがあったので、とにもかくにも、ザーヤンデ河に水があるかどうか、まずは調べないと、彼にすまないような気分になっていたのだった。

 朝の6時前、まだ薄暗い中、イマーム広場を横切って、橋を目指して歩き出した。早朝のイマーム広場はさぞや静かなのだろう、清冽な空気の中、わずかに数人、散歩している人がいるくらいだろうか…と思いきや、何と大音量でアップテンポのロック音楽を流している。びっくりして、何だ何だ、と近づいてみると、イマームモスクの正面で、20人くらいの老人男性が輪になってエアロビをやっているのであった。
 これは後でわかったことだが、甘いものが大好きなイラン人は、年齢とともに体重のコントロールが難しくなり、肥満傾向が強くなるらしい。(テヘランの男性衣料品店で、太鼓腹専用マネキンがあったのには驚いた。)結果、糖尿病や生活習慣病にかかる人が多いという。国民皆健康保険制度はあるものの、公立の病院は予約待ちでなかなか検査や治療が受けられず、結局医療費の高い私立病院にかからざるを得ない、ということもあって、近年「病気を予防する」という意識が少しずつ高まっているとのことだった。

 「公園エアロビ」はまずお爺さん、そして(ヒジャーブをかぶらなければならないということもあるからだろうが)お婆さんの間に広まったようで、後日テレビの特集番組もやっていたから、どうも流行になっているらしい。今回目にしたエアロビ軍団は、イマーム広場周辺の商店主などで、一日中帳場に座っているお年寄りたちなのではないかと思われた。
 それにしても世界遺産、イマームモスクの目の前でエアロビなど、何たる贅沢!当人たちはそれがわかっているのだろうか…などと思いながらつらつら眺めていたのだが、どうにもいかんのである。何がいかんのかというと、彼らの動きがいけない。まず、体に軸がない。手足はへにゃへにゃ、それに動きが全く揃っていない。幼稚園児のお遊戯だってもっとましだろう、と思わせるへなちょこぶりであった。

 昔、上海の公園で見た、太極拳をしている老人たちを思い出した。腰から背にかけて筋が一本、ぴしっと通っている。そこからゆっくりとではあるが、自在に繰り出される手足。悠然たる動き。美しかった。彼らには見ていて「尊厳」があった。ところがイスファハーンの公園エアロビには「尊厳」がない。エアロビはあくまで外来の体操であり、イラン人の体の中から出てきたものではないのだ、と感じた。

 こんなことも考えた。日本人は、明治期以降、国民国家の成立と近代化の過程で、江戸時代までの身体の使い方を大幅に変化させたと聞いたことがある。1930年代に、日本を訪れたドイツの建築家ブルーノ・タウトが、西洋のダンスを踊る日本人娘たちは気の毒だ、彼女たちの体の中には、祖先の血とともに、西洋音楽とは全く違うリズムが流れているのに、と書いていたが、私がイラン人エアロビに感じたのもまさにこの「気の毒さ」だったように思う。
 そこから80年たって、日本人は西洋由来の「身体の動き」をどのくらい内在化したのだろうか。もし早朝にお年寄りたちがエアロビをやっていたとして、その動きはどのくらい自然に見えるのだろうか。いや待て、ラジオ体操なら、その様がどのようであれ、おそらくそこにはある種の統一感というか、秩序があるだろう。参加者がある程度呼吸をあわせ、おのずと揃った動きをとるだろう。「尊厳」とまではいかないが、一種の様式美はあるかもしれない。イラン人は、中国人にとっての太極拳のような、民族古来の体操も、日本人にとってのラジオ体操のような、近代的な国民統合のための体操も、どちらも持っていないのか…などと、早朝のイマーム広場で、いきなり難しいことを考え始めてしまった。早くザーヤンデ河をめざさなければならない。

 水はなかった。見事なまでに涸れていた。
 この河は、もともと新春から75日は農業のために水をせき止めるが、それ以降は水が流れるはずだとヘダーヤトは書いている。しかし深刻化する水危機のため、現在では一年のうち大半はダムの門を閉じ、河に水が流れる時期の方が少ないらしい。
 河床まで完全に干上がった河に沿って少し歩いてみた。全く水がないのに、水の匂いがするのが不思議だった。スィー・オ・セ橋にたどり着く。橋の近くにわずかに水たまりがいくつかあって、そこに橋の優美なアーチが映っている様は、まるで鏡が砕け散ったようだった。もし河が蕩々と水をたたえ、長さ300メートルのスィー・オ・セ橋の33のアーチが全て水に映ったら、どんなに美しいことだろうと思うと、残念でならなかった。ただ、水がないので、橋の下を歩けたのはせめてもの救いだったかもしれない。本来水につかっているべき橋の下部アーチたちは、ようやく差し込んできた朝日を浴びて、なにやら見せてはいけないものを見せているといった風情だった。(続く

橋の下部アーチ


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