見出し画像

中東映画万華鏡00 女性が主役のチュニジア映画と、その周辺の映画7本

 かつてアラブ映画の中心国はエジプトだったが、近年、話題になることが多いのはマグリブ(チュニジア、アルジェリア、モロッコ)諸国、とりわけ女性監督の作品だ。ここではこれまでに視聴した、女性が主役のチュニジア映画を中心に、その周辺の映画とあわせ、7本の作品について書いてみたい。

   マグリブの女性監督作品の幕開けとなり、映画として最も完成度が高いのが、1994年のチュニジア・フランス映画「ある歌い女の思い出」(ムフィーダ・トゥラートリー監督)である。2022年のイスラーム映画祭7でも上映され、話題を呼んだ作品だ。

 若い女性歌手のアリアーにはチュニジア独立運動の闘士だった恋人がおり、彼の子を身ごもっているが、彼は父親になることを拒否し、中絶を望んでいる。ある日アリアーは、幼い頃(フランスからの独立直前の1950年代)に母と過ごした宮殿の主人が死去したという知らせを聞き、久しぶりに宮殿に戻る。そこで幼き日々を思い起こしながら、母や宮殿の召使いの女性たちが、主人の男性たちから何をされていたのかを理解していく。
 アラブの男性監督たち(特にエジプト)は、植民地状態から新たに国民国家として独立することを、新社会建設への希望をもって明るく描くことが多いが、この映画は、独立しようがしまいがクズ男はいること、男性による女性支配は独立しても何も変わらないということを突きつける。もちろん、「クズ男  vs 女性」だけでなく、他にも様々な対立構造が入れ込まれている、大変に見応えのある作品で、監督が昨年2月に他界されたというのが、本当に残念でならない。

 「ある歌い女の思い出」のアラビア語の原題は「宮殿の沈黙」という。沈黙、すなわち女性が声を上げられない、というのはチュニジアの女性監督作品の根底を流れるテーマである。2015年のフランス・チュニジア映画、「私が目を開くとき」(レイラ・ブーズィード監督)もその一つだ。ジャスミン革命直前のチュニジアで、バンド活動と恋愛にのめり込む18歳の女性、ファラフを描く。青春を謳歌する彼女だが、その活動は次第に警察によって目をつけられていく。権威主義体制のもと、女性が声を上げることがどれほど難しいか、考えずにいられない映画だ。そしてジャスミン革命でベン・アリー大統領が打倒されても、状況が何も変わらないことを示すのが、2017年の「美女と犬ども」(カウテル・ベン・ハニーヤ監督、チュニジア・フランス・スウェーデン・レバノン・ノルウェー)である。アラビア語の原題は「悪魔の掌で」。これは危険な状態を示す慣用表現だ。(追記:2023年のイスラーム映画祭8で「マリアムと犬ども」というタイトルで上映された)
  21歳の女子大生マリヤムは、パーティーで出会った青年ユースフと会場を抜け出して海岸に行くが、そこで複数の警察官に襲われ、強姦される。ユースフの助言で病院に行くが、警察で調書を作るのが先だと言われ、そこから先、数々のたらい回しと、事件をもみ消そうとする男性警官たちによる二次、三次被害にあってゆく。
 彼女を苦しめるのは警官たちだけではない。パーティー用のセクシーなドレスを着たマリヤムが病院と警察を行ったり来たりするのだが、「強姦=女性の恥=一家の恥」と考える社会で、病院でも彼女への対応は冷たく、まるで自己責任と言わんばかりである。映画を見ている途中で、ふと「加害者の告発がこんなに大変なら黙っていた方が楽なんじゃないか」「ヒジャーブをかぶっていた方が安全なんじゃないか」と思ってしまっている自分に気づいてぞっとする。映画を見ているだけでそう考えてしまうのだから、もしこれが現実だったら、女性たちのどれほどが沈黙を強いられることになるか、と思うのだ。
   前半で感じる違和感の正体が次第に明らかになっていく脚本も秀逸だ。カウテル・ベン・ハニーヤ監督は、2020年の作品「皮膚を売った男」が日本でも一般公開されているし、レイラ・ブーズィード監督の新作「性の教典 欲望の手ほどき」(すごい邦題だ)も今年6月にDVDが発売されるらしい。どちらも今後の活躍が楽しみな監督たちである。

   イスラーム映画祭7で上映された「ヌーラは光を追う」(2019年、ヒンド・ブージャマーア監督、チュニジア・ベルギー・フランス・カタール・オランダ)も、正統派のクズ男映画だ。アラビア語の原題は「ヌーラは夢見る」だが、ヌーラという名前が光を意味するので、そのニュアンスを汲んだ邦題ではないかと推察する。
   クズ夫の収監中に彼と離婚しようと、恋人ラサドと共に手続きを進める女性、ヌーラ。ところが離婚成立直前に、夫が恩赦で刑務所から出てきてしまう。一夫一婦制を法律で定め、アラブ諸国の中では比較的女性の地位が高いとされるチュニジアだが、一方で既婚者の姦通が罰せられるため、ヌーラは追い詰められる。主演のヒンド・サブリーはもとより、クズ夫役の俳優ルトフィー・アブデリーの演技も真に迫っており、見ていて怖くて身がすくむ思いがした。夫婦の悲劇を子供たちが受けとめる時、男の子と女の子で受けとめ方が違い、彼ら、特に男の子の行く末に一抹の不安を抱かせる展開が優れている。

   これらのチュニジア映画は、出てくる男が全員/ほぼ全員クズ男であり、クズ男を告発するその告発ぶりがパワフルで容赦ない。モロッコの女性監督、マルヤム・トゥーザーニーの「モロッコ、彼女たちの朝」(2019年、モロッコ)などとはトーンが全く違う。「モロッコ、彼女たちの朝(アラビア語の原題は「アーダム」)」は、未婚の妊婦サーミヤと、彼女を助ける寡婦アブラの交流を描いた作品だが、サーミヤがたった一人で苦しむ状況に追い込まれた理由は全く語られない。さらにアブラに思いを寄せる食料品店の若旦那など、クズでなさそうな男性も登場する。社会の中での女性の生きづらさや哀しみは十分に表現されているが、クズ男や男性社会を声高に断罪する映画かと言えば、ちょっと違うのだ。
  また、これらのチュニジア映画は、アルジェリア映画と違って、クズ男がイスラーム主義とは絡められていない。アルジェリアの女性監督ヤミーナ・バシール・シューイフの「ラシーダ」(2002年、アルジェリア・フランス、イスラーム映画祭6と7で上映)や、ムニア・メドゥールの「パピチャ 未来へのランウェイ」(2019年、フランス・アルジェリア・ベルギー・カタール)は、アルジェリアで1991年から約10年間続いた、政府軍とイスラーム主義者の反政府軍との間の内戦を背景に、女性や子どもたちが受けた被害を描き出し、それを通してクズ男が蔓延する理由、すなわちアルジェリア社会に横たわるマティズモ、家父長制、そして貧困を強く批判する。このように見てみると、一口に「マグリブ諸国」とは言うものの、決してひとくくりにはできない、視点の違いがあることがわかる。

   しかしながら、これらの映画全てにおいて、女性たちが男によって肉体を傷つけられ、魂を殺され、仕事や愛、夢を失い、社会的に抹殺されるのは共通している。中東映画はハリウッド映画とは違い、困難の中でどう一歩を踏み出すか決心するという、その「決心に至るプロセス」を描く作品が多いが、これらの映画でも、女性たちは悲惨きわまりない状況の中で、それぞれの決心をしていく。大それた野心をもつわけでもなく、ごく普通に生きているだけなのに、ここまで女性が痛めつけられなければならない理不尽さ、そして、彼女たちの決心の崇高さが胸を打つ。
   一方で、女性を所有していると思いこんでいる男たちの無自覚ぶりも大胆に表現されている。彼らもまた、権威主義体制であれイスラーム主義組織であれ、何かによって所有されており、自分以外の誰かの使い捨ての手駒とされているのに、そのことに全く気づいていないのだ。こうした点を鋭くつきつけてくるマグリブの女性監督の作品は、まさに「今」見るべき映画群ではないだろうか。

 もちろん、これらの多くが外国、特にヨーロッパの国との共同制作であり、国際映画祭の出品を意識した、すなわち欧米の観客の視点を考えた上で作られた作品なので、これらを観たからといって現地社会の空気が100%理解できるわけではないし、むしろ、これらの作品で語られなかった物語の方が重要ということもあるかもしれない。しかしそれでも、これらを観ることは、男性優位社会の中で一歩を踏み出し、こうした映画を作ろうとした、つまり「語る者」となろうとした女性監督たちの決心の物語に参画することであり、価値ある行為だと、私は思う。

 ところで、女性が主役のチュニジア映画というと、もう一つ、2021年の「ブラック・メデューサ」(チュニジア・ルクセンブルク)が想起される。ユースフとイスマーイールのシャービー兄弟が脚本・監督をつとめた映画だ。夜ごと男を犯し、殺していく連続殺人鬼の女性、ナダを描くホラーものだが、ナダがそのようなふるまいをするようになった理由がきちんと語られないため、「女性の物語をつむぐ」作品にはなっていない。一見すると、男女関係を反転させることで女性の立場について考えさせようとしているようにも見えるが、結局のところナダはただ男性の頭の中で人工的に作られた、男性が消費するためのキャラクターにすぎない。女性監督たちが作品を作ることで自ら「語る者」になろうとする、その決心の崇高さと重みに比べたら、正直に言って全くお呼びでないとしか言い様がない。白黒の画面はスタイリッシュで、時折差し挟まれるチュニスの風景も美しいので、この兄弟は映画ではなく写真集を作った方が良かったと思う。


(追記:なお、上には書かなかったが、モロッコのムスリムの女子高生とユダヤ教徒の青年との悲恋を描いたモロッコ映画「マロック」(2005年、ライラ・マラークシー監督)や、同じくモロッコのマルヤム・ビンムバーラク監督の「ソフィアの願い」(2018年、フランス・カタール・ベルギー・モロッコ、イスラーム映画祭7、8で上映)も、マグリブ女性監督による女性が主役の映画である。彼女たちの手によって今後どのような作品が制作されるか、とても楽しみだ。)

(追記2:「美女と犬ども」は、チュニジアで実際に起きたマリヤム・ビン・ムハンマド(仮称)の強姦事件を下敷きにしている。彼女が出版した Coupable d'avoir été violée (レイプされるという罪)の邦訳は出ていないが、事件の概要と裁判の様子は辻上奈美江『イスラーム世界のジェンダー秩序 「アラブの春」以降の女性たちの闘い』に簡潔にまとめられている)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?