「川の流れの果て」(7)(終)

7話「誰も知らなかった終わり」



それはちょうど大晦日であり、柳屋には留五郎達も、甚五郎爺さんも居て、他にもお客で溢れかえっていた。
初詣を楽しみに話す者、一年の勘定のまとめの「掛け取り」を誤魔化せないかと相談する者、新年のご馳走を思い描いてみる者、一年を振り返って笑い飛ばす者、泣く者。

店の中は賑わって、お花はくらくらしそうな程忙しかったし、吉兵衛も一瞬たりとも手を休められず、入れ替わり立ち替わりに、次から次へお客があった。

留五郎達の座る座敷には燗酒が火鉢で温められ、それから刺身の皿が膳に乗せられ、猪肉の鍋で精をつけようと言って、火鉢の上に猪肉と味噌が放り込まれた鍋が乗っていた。
「ふいーっ。寒いが、やっぱり鍋ぁいいよなぁ。もう煮えたんじゃねえか?」
「そうだな、そろそろいいか」
楽しみに待っていた鍋の中から、良く煮えた猪の肉を選ぼうと与助は箸でつつき、与助の向かいに居た留五郎も胸をほくほくさせながら、同じように鍋の中をひっくり返してはいいところの肉をつまんだ。
「うん、うめえ!」
「うめえなあ」

三郎も肉をつまみあげたが、牡丹は食べたことが無いので、肉を裏返しては見つめ、訝しげであった。それを見て留五郎と与助はにやにやと笑いながら、「要らねえんなら俺達で食うぜ?」、「そうそう」と、軽口を叩いた。
「馬鹿言え、うまいんだろう」
三郎が拗ねながら肉を口に放り込んで噛んでみると、油臭さの無い、引き締まった猪の肉を味わい、「こらぁ確かにうめえ…」と感嘆していた。
与助と留五郎は楽しそうに笑い、そこから先は三人で競い合って鍋をつつきまわした。

「はー、食った。うまかったな」
「なあ」
三人が腹をなでさすりながら後ろへ腕をついていると、店の外を偶然見ていた留五郎が、こちらへ歩いてきて行灯の灯りをちょうど受けた又吉を見つけた。
「お、又吉が来たぞ」
与助は留五郎の言葉を聞いて慌てて振り向き、又吉へ手招きをする。
「又吉!こっちだこっちだ!」
又吉はおずおずと三人の席に近寄ったが、その日の又吉は少し様子がおかしかった。

まず、顔色が紙のように白く、むしろ青いようだった。いつもの笑顔も消え失せて、悲しそうな顔だった。与助と留五郎がそれを心配して声を掛けても、又吉はいつもの返事より更に歯切れが悪く、「ちょっと、風邪を引いたかもしれねえんです」と、ぼやかして答えた。

「そうかい?それにしちゃあ真っ青じゃねえか。とりあえず座りな。休まなきゃならなそうだぜ」
三郎がそう声を掛けると、又吉は三郎の隣に座ってすぐに懐を探り、三郎に借りた「おくの細道」を取り出した。
「これ、ありがとうごぜえましただ。面白いなんて言っちゃ変かもしれねえけんど…いいもんでしただぁ」
青い顔ながらも又吉は笑って、三郎に礼を言うと、頭を下げた。しかしそれはいつもの可愛らしい子供のようなお辞儀ではなく、力なくがっくりと項垂れる様子に似ていた。

「ありがとよ。おめえが気に入ってくれたなら良かったが、どうだい、中身の感想は」
三郎は又吉の様子を気にしながらも、本について聞こうとすると、又吉の目は不意にすとんと火鉢の中の炭へと落っこちて、瞳の色はとろりと曖昧になった。
「…旅は、いいもんだと思いましただ。おらもどっか旅に行けたらええなあなんて…思いましたでなぁ…」
又吉は遠い何かを思い出しているような目をして、安らいだ顔でそう言った。本の中身を思い出し、そこで旅をしているように見える目だった。

「そうだな、この本には、いろんな旅の風景が書いてある。おめえはどこに行きたいと思った?」
又吉はそう聞かれて一瞬ハッとしたが、すぐに考え込むように顎をさすり、しばらくしてまた俯いた。
「どこってこともねえけんども…どこも面白そうだでぇ、みんな行きてえですだぁ」
「あはは。みんなは無理だな、銭が掛かり過ぎらぁ」
「そうですなぁ」
三郎と又吉はそう言って笑っていた。それから又吉はいつものようににごり酒を頼んだが、その日は珍しく、三合ではなく一合で、つまみは澄まし汁だけであった。

「実は、お店の大掃除の途中を抜け出てきてしまいましたでなぁ、すぐ帰らねえといげねえんです」
又吉はそう言いながら一合の酒を一気に飲み干し、貝の澄まし汁を啜って席を立った。

「留五郎さん、与助さん、三郎さん、よいお年をお迎えくだせぇ。ありがとうございましただ」
そう言ってぺこっと頭を下げた時には、又吉はいつもの様子に戻っていた。顔色もそう青くもないように見えたので留五郎達も安心して、「おう!こちらこそありがとうな、おめえも良い年迎えろよ!早く具合を治すんだぞ!」と返事をした。


柳屋の敷居から外に出て行く又吉に向かって手を振り、「猪肉を又吉にも食わせてやりゃあ良かったなぁ」、「食い終わっちまったんだからしょうがねえだろ」などと噂話をして、それからもう一度お花に酒を誂えてもらっていた。


「そいじゃあ親方、お花さん、一年世話になりました。また来年も来ますよ。良いお年をお迎えなすって下さい」
「ありがとうございます。留五郎さん達も、良いお年をお迎え下さい」
「格別のご贔屓を誠にありがとうございました。良いお年をお迎え下さい」
年末の挨拶のためにきちんと頭を下げた吉兵衛親方とお花に見送られ、留五郎達は弥一郎の店に帰る道に就いた。

道の両端には、表通りに店を構える大きな商家や職人の店が雨戸を閉めていて、戸口に吊るされた提灯がぽつぽつと足元を照らしてくれている。それでもやはり辺りは暗いので、歩いている互いの顔はろくに見えず、冷たい夜風に乗って、遠くから除夜の鐘がボォーーーンンン…と曇った音を響かせ始めていた。

「はあー!今年ももう終わりだなー!」
与助は、一年が終わるというなんでもないことに感動しながら気持ち良く酔っ払って、腕を上げて背中を伸ばした。

「そうだなあ、来年は何をするか…」
三郎は今にもやってくる新しい年に何をすべきかと思い巡らした。三郎の目の上には大事にしている人全員が映る。(いつの間に、こんなに多くなったのか。)そう三郎は気が付いた。

「決まってる。親方に小言を言われながら仕事を覚えて、銭を手にしたら目いっぱい遊ぶんだ」
留五郎は江戸の者らしい返事を寄越した。
「ちげえねえちげえねえ」


除夜の鐘はボォーーーンンン…ボォーーーンンン…と鳴り続け、三人は新しい年を心待ちに、今年が終わる満足感に温かく包まれて、布団に一年の疲れを溶かしながら、ゆったりと眠った。

明けて新年である。弥一郎の店の者は、まず全員で初詣に行った。

弥一郎親方は心の中で、家内安全と店の者の無病息災、それから商売が上手くゆくように祈願した。

それから、親方とおかみのおそのは、上客や仕事仲間、出入り先への年始参りに忙しく、職人達は新年初めての仕事の前に、ご馳走と酒を腹に詰め込んで、正月を楽しんだ。

おそのの支度した餅入りの雑煮、栗きんとん、田作り、鰊の昆布巻きや、甘い玉子焼き、煮た海老などのご馳走が膳にそれぞれ並んで、親方は正月のために特上の良い酒を、樽ごと誂えてきた。職人達はその酒を、二日三日ですっかり空にしてしまったのだ。

そして七草になると、ご馳走も食べ飽きたので七草粥にして、七草を過ぎたらやっと仕事に掛かる。職人達は、新年初めての仕事で如何なく力量を発揮しようと、それぞれ全く真剣に、仕事に打ち込んだ。

正月気分も抜けてきて職人達が仕事の息抜きに遊びに出るようになると、留五郎達はまた三人で「柳屋」に出入りするようになる。

「吉兵衛親方、明けましておめでとうございます!」
「明けましておめでとうございます。本年もお引き立てのほどを願います。何にしますか?」
「いい酒を五合と、それから鍋があったら何か誂えておくんなせえ」
「かしこまりました」
吉兵衛親方は商売に真面目なので、普段はともかくとして、節目節目の挨拶の時にはきちんと礼儀を払う人だった。大晦日の日もそうだったが、それを照れくさがって、留五郎達は一礼だけして、空いている床几の端に腰掛ける。



正月を過ぎても、料理屋で騒いで羽目をはずそうという客は多いのか、その日の「柳屋」はいつにも増して大盛況だった。
侍の三人連れが奥の座敷に居て、その隣の座敷には良い身なりをしてでっぷり肥えた、町人らしき男の二人連れがどっかと座り、それから甚五郎爺さんが座敷から離れた床几に掛けていて、爺さんはお花に燗酒をもう一度ねだっているところだった。その他は町の若い者、老いた者と、大急ぎで出してきたのであろう酒樽にまで腰掛けて店内にひしめき合い、お花は歩くのに困っているほどだった。

「明けましておめでとうございます、お花さん」
「まあみなさん、明けましておめでとうございます。どうもご来店ありがとうございます」
お花はお客に運ぶために温めた酒の入ったちろりを抱えて嬉しそうににこにこっと笑い、留五郎達に頭を下げた。

「いやいや。やっぱりここに来ねえと落ち着かねえもんですから」
「ありがとうございます。本年もよろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
お花と留五郎達がそうして話していて、留五郎達が床几に腰掛けた時だ。


「ごめんください!」


そう叫び、「柳屋」へ誰かが飛び込んできた。

それは前掛けをした、奉公人らしい、まだ十二にもならない丁稚のような子供だった。
その子供は切羽詰まった顔をして、「ご主人は、ご主人は居りませんでしょうか!」と店中に聴こえる声で叫んだ。

吉兵衛は何事かとまな板の前を離れ、「どうしました、お客さん」と、丁稚らしき者に声を掛けた。

「こちらは柳屋さんでお間違えないでしょうか」
丁稚が震える声でそう聞くので、「はい、手前が「柳屋」です」と吉兵衛が答えると、丁稚は急にはらはらと涙を零し、その場で泣き崩れんばかりに両手で涙を拭い始めた。

吉兵衛は「ただごとではない」と思い、丁稚の肩に手を添えてやって、「まあまあ貴方、とにかくそこにお座りになって、気を鎮めて下さい」と、留五郎達が掛けている床几の隣へと座らせてやろうとしたが、丁稚は首を振って、「そんな場合じゃないんでございます!そんな場合じゃないんでございます!」と、二度繰り返し、顔を上げて、懐から一通の手紙らしき物を取り出した。

「一体どうしたんでございますか。文をお届けに上がって下さったのですか?」
吉兵衛がなだめるようにそう聞くと、丁稚は涙を垂らしながら、一生懸命に頷いた。そして泣いてぐしゃぐしゃの顔を吉兵衛に向ける。
「貴方様が、吉兵衛親方様でございますか」
「はい、手前が吉兵衛でございます」
吉兵衛は、本当にただごとでない様子に、真剣になってその十二ほどの子供の顔を見つめる。丁稚はなかなか喋ろうとはしなかったが、かなり混乱している様子で、喋る糸口を必死に探すように、宙で目をきょろきょろとさせた。そして、やっと見つかったのか、大きく息を吸う。


「あたくしは日本橋呉服町の、呉服問屋「三井屋」の丁稚で、新助と申す者でございます!この文を、このお店にお届けに上がりました!どうぞすぐにお読みになって下さい!これはうちの店の、又吉さんの、遺書でございます!」
丁稚は打ちのめされたように体を折り曲げ屈み込んで、地面へ向かって叫んだ。

吉兵衛とお花、それから留五郎、与助、三郎の顔が凍り付いた。しばらくは誰も口を利かなかった。店に居た他の客も、丁稚の叫びに、皆が黙り込んでしまった。

その時の丁稚の絶叫と、涙を堪えようとせずに体中をぶるぶる震わせながら前屈みに泣く様子は、どうか嘘であってくれと願う事すら許さなかった。

お花は手に持っていたちろりをするりと床に滑り落とし、それが大きな音を立てて割れたのにも気付かないようにそのまま立ち尽くして、ぼうっと動けなくなってしまった。三郎が床几から立ち上がって、お花の肩を支え、何も分からなくなってしまったお花をとにかく座らせる。


「とにかく、日本橋からお歩きになってきたのでしたらお疲れでしょうから、どうぞ休んで下さい」と、吉兵衛は半ば無理に、丁稚の新助といった者を、床几に座らせた。新助は泣き続けていた。


又吉の遺書は、吉兵衛宛であった。
「それでは、読ませて頂きます」
吉兵衛は文の包みを静かに開けて紙を広げて、何かに駆られたように目を走らせていたが、だんだんとその目からは血走った様子は消え失せ、最後にはその文から目を背けて、目に潤む涙を片手で拭った。

「…親方、何が書いてあるんでい…又吉は、どうして…」
与助が震えて力なく、小さな声で親方にそう聞く。吉兵衛は首を振って、しばらく答えられもしないようだった。

留五郎と三郎も中身を知りたくて堪らなかったが、店はしばらく沈黙し続け、吉兵衛親方は近くにあった酒樽に、倒れ込むようにどかっと座って、俯いてしまった。

すると、店の中の陰鬱な空気に堪えられなくなったのか、又吉を知らないお客は「親方…勘定、置いていきますんで…」と、次々と帰り出した。吉兵衛は顔を上げる事も出来ずに、曖昧に頷いただけで、その客達を見送った。



店に又吉を知る者以外が居なくなってしまった頃に丁稚はやっと泣き止み、下を向きながら、ぽつりぽつりと話し出した。


「又吉さんは…とてもいいお方でした。真面目で、真面目過ぎるくらいで、それに、大変にいい男で、なかなか田舎言葉の直らない方だったもんで、うちに居た番頭さんに目を付けられて…始終番頭さんは又吉さんに言い掛かりを付けては、お小言を何時間も続けたり、時にはぶったり蹴ったりして…又吉さんはそれでも、「自分の商売の腕が良くないからだ」と一途に思い込んでまして、番頭さんを恨むこともなく…それなのに、又吉さんが番頭さんに謝るたんびに、番頭さんはその謝り方が癪に障る言い方だだのなんだのと言って、又吉さんを虐めました…」

留五郎は丁稚の新助の話を聞きながらぎりぎりと握り拳に力を入れ、与助は信じられないように悲しそうに目を見開き、三郎は目を伏せてじっと黙っていた。お花はぼうっとしたままで、新助の話を聞いているのかも分からなかった。

「ある時なんか、お店に大きな損が出まして、番頭さんのしくじりのせいのくせに、それを又吉さんのせいだと叱りつけて、顔の形が変わるくらい又吉さんを殴りつけて…それでも平然として「早く仕事に戻れ」と番頭さんは言いました…。それから、又吉さんへの虐めはそれでもまだ済みませんで、ごはんの時に又吉さんの膳を取り上げて中身を全部捨ててしまったり、「態度が良くなかったから飯抜きだ」と言って、たびたび又吉さんを店から追い出したりして…。それでも又吉さんは、番頭さん番頭さんと言って、仕事の事なんかを教えてもらいに行きますと、「お前のような愚図に教えても無駄だ」なんて言って何も教えないで、それなのに又吉さんの商売の腕が上がらないのを、全部又吉さんのせいにして、叱ったり、殴ったり…番頭さんは、本当に…本当に酷い人でした…。あたくしは何度となくそれを旦那様に言おう言おうとは思いましたが、番頭さんが怖くて…とうとう言えませんで…」

丁稚はそこでまた泣き出して涙を拭っていた。皆、それが落ち着くのを待ち、丁稚は二つ三つ鼻をすすると、元のように土間に目を落とした。

「去年の末でしたか、ある晩、又吉さんがお店を抜け出して、あたくしはてっきり又吉さんが逃げたんだと思いまして、ああこれで番頭さんから逃げられたんだと、ほっとしたところもあったんでございますが、あくる朝になって又吉さんは戻って来てしまいまして、そりゃあもう番頭さんに酷い目に遭わされて…あたくしが冬の夜に何をしていたのか聞きに行きましたところ、又吉さんはやっぱり「お店を抜けようかと思ってしまったのだ」と言ってから、このあたくしにまで謝りまして…でも、「自分に必要の無いお金を、本当に欲しい人にあげることができた」なんて言っておりまして、何のことか聞いても答えてくれませんでしたが、又吉さんが亡くなった後で又吉さんの部屋を調べて、葛籠の中に又吉さんが将来の商売のために貯めていたお金があるだろうと大旦那と番頭さんが葛篭を開け、出てきた手文庫を調べてみたのですが、そこには二通の遺書が入れられていただけで、他を探しても、着たきりの木綿なんかの他には何も出てきませんで…本当に一銭も無くなっていたんであります…又吉さんは、もう自分の店の事も諦めて、死ぬつもりで過ごしていたんでございます…!」

留五郎はぶるぶる震えて鬼のように眉間に皺を寄せながら、涙をしとどに流していた。与助も同じで、俯いてしくしくと泣き、着物の膝のところをぎゅっと握りしめていた。

「店の者に宛てた遺書の中に、もう一通の、吉兵衛親方様にお渡ししました遺書を持って行って欲しいのだと書いてありまして、「お世話になった飯屋の親方へのものだ」とありまして…あたくし達は又吉さんがいつもどこへ行くのかもまったく知りませんで…」

その時、飯屋に居た全員も、「そういえば自分達も、又吉がどこの店に奉公していたのかすら知らなかった」と初めて思い至った。

「又吉さんは…大晦日に姿が見えなくなりまして…翌朝、おかみさんが井戸から水を汲もうとした時に…」

その丁稚の言葉を聞き、留五郎が俯いて片手のひらで顔を覆い、ゆらゆらと首を振った。与助はしゃくり上げ始め、三郎は尚も堪えていた。お花は人形のように動かなかった。

「本当に…又吉さんにも、皆様にも、申し訳ないと思っております!皆様、どうぞお許し下さい!あたくしは近くに居ながら、何も出来なかったのでございます!申し訳ございません!申し訳ございません!」

丁稚の新助は土間にがばっと土下座をすると、吉兵衛に向かって何度も頭を下げた。吉兵衛はそれを慌てて起き上がらせる。

「…貴方が悪いのじゃありません。すべては、その番頭さんから起こった事です。貴方が気に病む事ではありません…」

吉兵衛はやっとのことでそう言ったのか、その目からは涙が溢れていた。

その時、床几に座っていたお花が土間にどさっと膝から崩れ落ち、その顔に人の心が戻った途端それはくしゃりと悲しみに歪むと、土へ顔を伏せてわっと泣き出した。
「ああ!ああ!ああ!なんてこと!なんてこと!なんてこと!」
わけも分からずお花は身も世もないほど泣き、与助が肩をさすろうとすると、お花は与助の顔も見ずに、強く振り払った。

お花の悲しみは、誰に癒してやることも出来ず、そして、涙を拭ってやれる者も、もうこの世には居なかった。
お花はほとんど前に倒れるようにして土間に突っ伏し、全身を震わせて、もがき苦しむように泣いていた。

吉兵衛はそんなお花の傍へ寄り、お花が泣き伏している土間に自分も座り込んで、一緒になって泣いた。

親子はそのままずっと泣き続け、誰が止めてやることも出来なかった。それを見て、留五郎達も、お花と吉兵衛の気持ちと、二人が又吉を何者としようとしていたのかを、深く悟った。



しばらくして、留五郎がぽつっと、「あいつは、いつも笑ってた…」と口にした。

「いつも笑ってた…泣きもしねえ、悔しそうな顔だって、いっぺんもしなかった…でも、俺達だって…よく考えりゃあ分かったんだ。泣かねえ人間なんか、一人たりとも居ねえじゃねえか!いつもいつも笑ってて、平気で居られる人間なんか居ねえじゃねえか!俺達はそんなことにも気づかなかったんだ!」
留五郎はそう叫ぶと、悲しみと怒りが頂点に達したのか、自分の膝を思い切り殴りつけて、「ちくしょう!」と叫んだ。

「なんて奴だ!又吉をそんな目に遭わせるなんて、畜生だ!そんな奴を生かしておくわけにゃいかねえ!俺がこの手で直々にぶっ殺してやる!」
涙を振りまいて留五郎はそう叫んで店を出て行こうとしたが、三郎がその腕をなんとか掴んで、必死の思いで足を踏ん張って留五郎をその場に引き留めた。
「留五郎!落ち着け!落ち着くんだ!そんなことしたってなんにもならねえ!」
「止めんじゃねえ!なんでおめえはそんな風に、こんな時にまでものを考えていられるってんだよ!おめえも泣け!怒れ!じゃなきゃ人間じゃねえ!」
留五郎ももうわけが分からなくなっているのか、目の前の三郎に怒鳴った。だが、三郎は動じなかった。

「俺だって泣き狂いてえ。でも、お花さんの気持ちを考えてやれ。又吉を一番大事に思ってたのは、お花さんなんだ」
そう言ってから三郎は唇を噛みしめて留五郎を見つめていたが、ふと、三郎の唇の端から、つう、と血が垂れた。
「さ、三郎!おめえ、唇が…血が出てるじゃねえか!噛むんじゃねえ!こら!ちぎれるぞ!泣かねえ!泣かねえからやめろ!」
留五郎は慌てて目元をごしごしと拭い、三郎の肩を両手で揺すった。与助もそれを見て、「よせ!三郎」と叫ぶ。


「柳屋」は、もうめちゃくちゃだった。誰もが悲しみ、誰もが正気を失っていた。


三郎はやがて唇を噛むのをやめ、留五郎も怒りでふうふうと漏れ出る鼻息を抑えていたが、三郎が不意にこう言った。
「…覚えておくんだ、留五郎」
「え…?」

お花がむせび泣く声だけが響いている。そこへ、三郎の低い唸り声が混じった。

「俺達は、又吉がこの江戸に居て、誰よりも優しかったと、覚えておくんだ…」

三郎は噛み痕の残った真っ赤な唇をわなわなと震わせ、やっとのことでそう言った。

留五郎は何も言えず、必死の形相のまま動かなかったが、やがて腰が抜けてしまったようにその場にへたり込むと、膝を抱えて静かに泣き出した。

「そうだ…あんなに優しい奴ぁ居なかった…」
与助もそう言って、頻りに顔中を擦り回して泣いた。三郎は最後まで足を踏ん張っていたが、そこで初めて、がくっと床几に座り込んだ。


吉兵衛はお花の泣くのが治まってくると店を閉め、留五郎達は吉兵衛に勘定を渡して、呆けたようになって店へ帰った。誰ももう、喋らなかった。


あの日から、ひと月半ほどが過ぎた。

留五郎と与助はしばらくの間、又吉を死に追いやった憎き番頭を罵っていたが、いつまでそうしているわけにもいかず、時折目を伏せて考え込む以外に、やることはなくなってしまった。


その日、三郎は一人で、昼前の「柳屋」へ顔を出した。まだ寒い、二月の始めごろである。


店に客は少なく、まな板の前に、いつもの通りに吉兵衛が居た。奥で皿を洗っている娘の後ろ姿をお花だと思って、「元気になったのか」と三郎は安心しかけたが、その娘が皿を抱えてくるりと振り向くと、それはまったく見知らぬ娘であった。
「親方、お久しぶりです」
「ああ、三郎さん。久しぶり。今日は良い身欠き鰊があるが、どうだい」
三郎が挨拶すると、吉兵衛も微笑んでそれに返し、いつものように肴を勧めた。
「へえ、じゃあ、酒を二合と、鰊を。鰊は、炊いたもんですかい」
「そうだよ。じゃあ、支度するから待ってておくれ」
「お願いしやす。親方、ところで…お花さんは…」

三郎が聞きにくいながらもそう聞いて、店に姿の見えないお花の様子を確かめようとすると、吉兵衛の顔色がさっと曇り、しかし気丈に悲しみを堪えるように、すぐにぎゅっと眉間に力が込められた。


吉兵衛の言うには、お花は又吉の死を受け止められずに家で泣き暮らしていて、「尼になりたい」と言ったり、「自分もその傍に早く行きたい」と口走るようになったという。


そんなお花を止めるため、吉兵衛が又吉の位牌を拵えてやって、「成仏を祈ってやれば又吉のためにもなるし、あの世でもきっと会えるから、生きていてくれ」と頼み込むと、こっくりと頷いたという。


それからのお花は、一日中仏壇の前から離れず、泣きながら念仏を唱えているらしい。

「食べるものもろくに食べず、一日中仏壇の前でそうしている姿が、かわいそうで見ていられないのです…。それに、店は続けなければ、お花もあたしも、生きていけません。こうして店に立ってはいますが、今この時も、お花は家で又吉さんのために祈っていると思うと…あたしが…あたしがあの子に、ゆくゆくは又吉さんと一緒にしてやるつもりだ、なんて言わなければ…もしかしたらこんなことにはならなかったと思うと、あの子に本当にかわいそうなことをしたと思いまして…」
そこまでを言い、吉兵衛はがっくりと俯いた。乾いた地面に、ぽたりぽたりと雫が落ちる。


ああ、人が前触れもなく死ぬというのは、こういうことなのだ。その時、三郎はなぜか、自分の中で誰かがそうつぶやいているような気がした。

「親方…なんと申していいやら…親方もお力落としでしょうから…本当に、なんと言っていいのか…」
「ありがとうございます、あたしは大丈夫です。お花が…早く良くなってくれればと、そればかりでございます…」
「はい…」

三郎は客がまだ少ない柳屋の座敷に座り、甘辛い鰊の煮物で酒を飲みながら、風よけに立て回された茣蓙の隙間から差す、明るい光を見ていた。

こんなに明るい光が差しているのに、もう又吉は居ない。なぜか三郎は、その時、それが不思議で仕方なかった。


三郎の他の客は、甚五郎爺さんが元のように床几に座って、手酌で酒を飲んでいるきりで、給仕の娘は釜の火を見ながら炭を中に投げていた。


三郎は陽の光をきらきらと返して輝く大川を睨みながら、酒を飲み、鰊をぼーっと食べ、親方に、「くれぐれも、お体にはお気をつけてくだせえ」と言って、柳屋を出た。

道へ出ると、そこを歩く者の声が三郎の耳にぼわーんとどこか遠くから届いた。

芝居小屋の噂や、商売の悩み、晩の菜の相談などをしながら、人々は三郎の傍を通り過ぎていく。誰一人として、又吉のことを喋る者は無い。

お天道様はいつも通りに空に収まっていて、雲は流れていくし、風も強く吹く。三郎は、悲しみや怒りにもしそれだけの力があれば、自分は風を止めるし、お天道様をどこかへ隠すだろうと思った。

でも、自分にそんな力は無い。


誰もが変わらず飯を食い、酒を飲み、働いては眠る。



人々が泣き、笑い、そして生きて死んでいくのを横目に、大川の流れは変わらず、海へ海へと、流れ続けていた。





あとがき

ここまでお読み頂きまして、本当にありがとうございます。


実体験を書くとは言いましたが、江戸時代と今では暮らしは全然違いますので、本当の様子を書いたところはほとんどありません。


登場人物の元になった人と、実際ここで書いた人物の性格も、かけ離れていると言えます。


もしかしたら、最後の一文が書きたかっただけかもしれません。


残念ながら悲しいお話でしたが、お読み頂いた方に、改めてお礼を申します。


ありがとうございました。


エレナ

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