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バチ当たったことありますか?

おはようございます。level4です。

皆さんも一度は思ったことがあるはずの言葉。

バチが当たる

バチって本当に当たるのでしょうか?
皆さんはバチについてどう考えてますか?

バチがあたった日

ある男の子は小学生の頃、バチについて考えていました。悪いことをしてしまったからです。

その日のお昼、彼は給食で出た魚がどうしても食べられずこっそりトイレに捨ててしまいました。
彼にとってはひどい罪悪感を感じたらしく、バチが当たるのではないかとドキドキしながら帰りました。
すると早くも彼にバチが当たります。
その日の夜お気に入りの自転車が盗まれたのです。

バチという概念

結局その後彼の元に自転車が帰ってくることはありませんでした。それ以降彼は給食で苦手なものをトイレに捨てることもありませんでした。
彼は考えます。

そもそもバチってなに?

「悪い事をするとバチが当たる」という概念は日本特有の文化です。
お天道様や御先祖様がいつも自分のことを見ていて、悪い事をすれば天罰がくだる。

もともと宗教の概念ではないみたいですが、なぜこの考えが生まれたのでしょう?
現代科学で言えば、神様等はまだ確認できていませんしいつも見られてるということもないのかもしれません。
では、何のためにバチという概念があるのでしょうか。

バチは、社会上必要な概念

今大人になった彼は、思いました。
「たかが給食の魚を一切れ捨てただけで、自転車を失うなんて割に合わない」と。世の中食材廃棄で溢れているのになぜみんなバチを受けないのかと。

ただ、当時よりも少し大人になった彼は同時にこのようにも思いました。
「悪いことをするとバチが当たる」と考えてるからこそ「悪いことができない」のではないか。

バチは罪悪感を感じさせるための必要な考え

「バチがあたる。」「神様がいつも見ている。」この考えが幼い頃よりあるからこそ、人は悪い行動に対して躊躇する心を持たせるのだと彼は考えます。
この概念のおかげで、ただのポイ捨てでもいつか回り回って自分に返ってくると考え躊躇します。結果的にポイ捨ての抑止力になります。

バチは当たる

ここで1番最初の話「バチは当たるのか」に戻ります。
彼は「悪いことをすれば必ずバチが当たる」と考えます。
実際に当たるかどうかではなく、「罪悪感を感じてる間に起こる不幸はバチと考えてします」のです。

先程の「罪悪感を感じさせるために必要な考え」はここでその効力を発揮します。
ある悪いことをした際に罪悪感を感じない場合、その後自身に不幸があっても、因果応報とは感じません。
罪悪感を感じるからこそ、その後身に降りかかる些細な不幸であっても、「バチが当たった」と考えるのです。

神様

RADWIMPSの「おしゃかしゃま」にはこう言う歌詞があります。

話で聞いてる神様はどれもこれも人の形なんだ
RADWIMPS「おしゃかしゃま」'09

神様は不思議と人の形です。なぜなら神様という概念は人が作ったからです。
(世界には象などを神とする概念もありますが、それも結局は"地球上に存在する生物"です。)

人が考え出した概念なので、当然実在するものではありませんし、「神様がいつも見ている」というのも事実ではありません。(今後科学の発展で事実になる可能性もありますが)

ただ、これも人々が共存して生きる社会には必要不可欠な概念です。
神様がいて、いつも自分を見ている。悪いことをすればバチが当たり、地獄に堕ちる。
この考えがあるからこそ、人は悪い行いを躊躇うことができるのだと彼は信じてるのです。

最後に

彼は、その後魚を残しトイレに捨てることはありませんでした。
それは、「バチが当たる」と考えているからです。
結局その概念のおかげで彼は食べ物を捨てるという行為を改め、食べ物を大切にする考えを持ちます。

大人になった彼が考えたように、大量廃棄している業者ももしかしたらどこかでバチが当たってるのかもしれません。

ただ、全ての人類がこの概念を持っていたとしたら社会はより良くなる。そう思いませんか?

私たちの生きているこの世で起きることにはすべて原因がある、これが「因」です。起こった結果が「果」です。因果応報というように、必ず結果は来るのです。
瀬戸内 寂聴

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