母を想いながら、自分を見つめる

母が亡くなって1週間ぐらい経つ

実家は何も変わっていない。
ただ、そこに母がいないだけ。

なんと不思議な感覚だろうか、、、

GWがあるため

まだ介護ベッドや車椅子が返却できていない。
母のために買ったおむつ類の山が沢山残っている。

きっと、まだまだ生きるとその時までは思っていた。

きっと、部屋が片付いていくにつれて
母がいた環境ではなくなっていくのだろう。

母が亡くなる何日か前に緩和ケア病棟に面会に行った。

アイスが食べたい、氷が食べたい

その訴えがあり、ほんの少量だけ口の中に入れた。

「おいしい」

すごく嬉しそうな表情をした。だけど、殆ど食べれない

そんな光景を見て

あぁ、大部屋だと面会時間に制限がある。
個室に移さないと、、、、

そう僕は思った。

そこで覚悟をした。

残りの時間は限られていると

個室に移して、仕事終わりに母に会いに行った。すると、Broも面会に来てた。

母は酸素マスクをつけ、意識朦朧としてた。

はっと目を開けては目を閉じて、だけど少しだけ会話できた。

そして、母は力を振り絞って言葉を発した。

「二人仲良く楽しく過ごして」と

この二人とは、僕とBroのことなのか
あるいは、僕と父のことなのか

それはわからない

だけど、僕ら家族にむけた必死の言葉だった

それを聞いた時、、、、、、

僕は全身が震えた。

まるで映画のラストシーン

殆どの映画は、ここから大切な人が亡くなる流れになる

まさに、当時の僕は

一瞬にしてそれを察知してしまった。

だから、僕は涙をこらえて声が震えないように、母にバレないように精一杯冷静さを保ち

「いやいや、そんなん言わなくてええよ。まだまだ早いわ」

と答えた。

あまりにも辛かった。

これが本当に最後になるんだ、、、、、。


母の16、17年近く闘病生活を見てサポートしてきて

幾度となく母親の死を想像した。

また、本当にもう死ぬかもしれない

そんな場面が何度もあったが、毎回復活してきた。

だから、今回もなんとか持ちこたえるだろう、、、、

そう思っていた。

頭ではわかっていたんだ、もう難しいと。
沢山の人の亡くなる姿を見てきて、皆同じ流れをたどる。
母もその流れをたどっていた。

だけど、心はどこかまだイケるだろう、、、

そう期待していたが

その母の必死の言葉を聞いたら

本能的に感じた。


「あぁ、ほんとうにおかんは死んでしまうんだ」と

その次の日からずっと亡くなるまで付き添った。

父やBroが面会に来たら、僕はいったん帰ってシャワーを浴びたて着替えて、少しご飯を食べてまた面会にいく。

こんな日を数日繰り返した。

夜は僕一人だけの付き添いになる。

ずっと母のそばにいて、手を握って頭をなでた

「大丈夫だから、今までありがとう。あんたを1人では行かせないから、ちゃんと最後まで見届けるから。あんたと約束したから、最後まで約束は果たすから」

そう、ひたすら声をかけた。

僕の声が聞こえてるのかわからないけれど、息を吸うたびに声を発していた、

目の前には、命が尽きようとしてるけど
必死でまだ行きている母がいる

最後の最後まで目に焼き付けようと心に決めた。

呼吸は下顎呼吸、死に向かう呼吸だ。

末梢はチアノーゼが出始め

アザができないぐらいの力でグッと握る力が強くなる

母のベッド柵にもたれ少し眠ったら、病棟の看護師に起こされた。

「橈骨動脈が触れなくなってきてます。ご家族を呼んでください」

僕は覚悟をした。

気は動転してたし、その時にNoteを投稿してた。

冷静だったわけではなく、気が動転してて何かしないと落ち着くことすらできなかった

すぐにBroに連絡、

「もうすぐだから父を迎えに行ってくれ」

そして
父にも電話

「あぁ、あぁ、そうか、、、、、わかった」

力なく悲しげな声だった

数十分後に家族が揃った。

まだ、母は頑張っていた。

僕らが揃うのを待っていたかのように

僕の看護師経験の中で
もうすぐ亡くなるという場面でも、「もう少しでご家族が到着しますから、もう少し頑張って」と声をかけ、体を触ると

家族が到着するまで命が尽きないことも多い

そんなシーンを見てきた。

きっと母もそうだった。

絶対に1人では死なせない

そう思って、僕だけでもそばにいれたら
ただ、できれば家族揃って見送りたかった

この僕の願いは叶った。

ゆっくりと呼吸回数が少なくなっていく

無呼吸が増えていく

あぁ、もうそろそろだ

呼吸が止まる

少し復活して

また止まる

数回繰り返し

呼吸が止まった

僕は医師を呼ぶ前に自分で確認をした

スマホのライトで瞳孔を確認。

瞳孔散大、対光反射なし
呼吸音なし、呼吸停止
心拍音なし

自分の手で

僕をこの世に生んでくれた母の

最後を看取った。

真っ暗な外の景色が少しずつ明るく太陽が昇ってきた時だった。

きっと、太陽と一緒に母の霊は天国に昇った

そう思えるとても明るい外の景色だった。


僕はナースコールを押して、看護師を呼んだ。

その後、少し時間をおいてから

医師と看護師が病室に来て、死亡確認をした。

御臨終です

母は73年で人生の幕を下ろした。

約17年の長い長い闘病生活。

母は必死で生を全うした。

僕は

母がなくなった瞬間

悲しみよりも、やっと楽になったね

母と息子、17年近くで支え合って良く頑張ったよな、俺ら。

あんたも俺もほんまに頑張ったよな、最高の親子やな

って気持ちで溢れていた。

本当に長かった、17年は子が高校生なるぐらいの期間

そんな期間を癌と闘った母は尊敬しかない

そんな母と一緒に闘病生活を闘えたのは
今後の人生の生きる力になるはずだ

と病院の外でタバコを吸いながら空を見上げた。

悲しさは少ないのに、なぜか涙がずっと出た。

タバコを3本連続で吸ってる間、ずっと涙が止まらなかった。


親の死は自然の法則

親が生きてる間に親孝行しなさい、後悔することになる

そう言われることも多いですが

僕と母は

母の癌がきっかけで

母と息子から、戦友へと変わり、
最後は母と息子の関係は逆転した。

親を看取る、とはそういうものなのだろう。

17年という闘病生活がなければ

きっとここまで深い関係にはならなかったかもしれない。

命があるとわかっていれば、命の大切さを意識せずに過ごしていたかもしれない

命に限りがあるとわかっていたからこそ、
自分のできる限りを母に費して関わりを持った

決して嫌ではなかった。母の世話をすること。
好きでしていたから。

もちろんしんどくて嫌味を言うこともあった

だけど、それ以上に母を思って関わった

だからこそ、亡くなったとき
悲しみではない別の感情が僕を包んだのだと。


きっと、この長い闘病生活を支えていなければ

突然、余命数ヶ月です

となっていれば、

きっと、僕はこんな気持にななることは決してなかったと断言できる。

自暴自棄になっていただろうし、もしかしたら精神を病んでいたかもしれない

最悪の場合は、死を考えてしまうかもしれない

だけど、これだけ長い間

母ととても濃く関われたことが


きっと、それらの処方箋だったのだろうと

悲しみの気持を和らげる処方箋だったと


もちろん、悲しみ続いている。

ふと涙が出るときもある

まだ心の傷が癒えるには長い時間がかかるだろうけれど

毎日を生活できるぐらいのパワーは持てている

きっと、

母からの人生最大の贈り物なのだと。

癌は死ぬほど憎い

母をずっと苦しめて痛めた存在に変わりない

多くの人の命を奪う悪魔のような存在に変わりない


だけど、

母の乳がんをきっかけに


僕と母の関係性がとても色濃く深い関係になったことには違いない


僕の好きなポッドキャストに、去年母との事についてお便りを書いた。

すると、すぐに取り扱ってくれた。

とても嬉しかったし、

俺等親子ってスゲーって思えた。


「別れ際の後悔」をできるだけ見ないで

16年近く支えたその長い時間を見てあげて

この言葉は、ほんとに心に刺さった。


僕は、この約17年間の母の闘病生活をともに支えてきた長い期間を

後悔は全くしていない

最後の別れ際は、最後の最後までそばにいて寄り添えた

120点満点中、150点満点

自分でもそう思えるぐらいだ。


そして、親孝行は終わらない

子が幸せな人生を送ることが

親の最大の親孝行

その言葉を胸に秘めて

自分が死ぬ時

母親に胸を張って

「俺の人生、ヤバかったやろー(笑)」

と言って

迎えに来てほしい。

約束したしね。


これからは自分の人生を全うすることに

母のお節介さを受け継いだからこそ、

誰かのために生きていきたい。


おかん、

何度言えば足りるかわからないけれど


ほんとに今までありがとう

また、俺があの世に行ったときは

「よく頑張ったね、餃子作ってるから早く手を洗っておいで」

って

また笑って出迎えて

よろしく


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