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あるべき芸術家の創作物で、ミケランジェロが運慶した


私は、広告系のデザイン制作を仕事にしていた時期があります。
デザインはクリエイティブというより、依頼されるお客さんクライアントの要望を具現化する仕事です。
当然、自分の色を出しますが、あくまで依頼主の為なので、不本意な方向にいく時もあります。

ここで、芸術家の創作物とは違うという論が出ます。
芸術家は自我を出して自分の思う通りに進めるのが肝心という主旨です。

私は違うと思います。

芸術家の創作も、見る相手、受ける相手があって成立します。
稀代の芸術家でも、パトロン依頼されて作ることがあります。
ミケランジェロもモーツァルトも、貴族などの依頼主の為に創るものが多々あります。自分の色を出せたモノ、不本意なモノ、色々あったでしょう。

創作物は相手との双方向のコミュニケーションだと思います。
自分だけが満足するために作る現代アートは見るに耐えません。
それあんたの潜在的な性癖じゃん、とか、個人的なトラウマを撒き散らされても困る、とか。
承認欲求を満たすための独りよがりなのは作品と言えず、内的なものから普遍性へと昇華させる、どう結びつけるかが大事だと思います。
漫画家の卵だろうと、無名な彫刻家だろうと、売れないミュージシャンだろうと、わかる人にだけわかればいい、などの考えは傲慢です。

売れ筋を考えろとまで言いません。商業的なのは本末転倒です。
しかし、相手を想像できない芸術家は想像力ないから創造力ないです。


逆に、観る方は、そんな創造者をイメージしながら観ると面白いです。
運良く、ミケランジェロの「ダビデ像」や「ピエタ」を観れた時があります。
確か若い時の作品だと思い、自分の色を出す生々しい熱情が出てました。
ダビデの手のドカンとしたとこや、ピエタのイエスがダランとしてるの、リアル以上のリアルがあります。布表現も凄まじく、生では観てないけどコッラディーニのベールも何なんでしょうね。
人の信仰を題材としてますが、ミケランジェロはイエスを人間としてみてますね、本音は。
イエスに死体の重力があります。むしろ抱くマリアに、母より女性の抱擁を神格化してますね。創作者のそういう性格だっただろうと垣間みれます。

また、日本のミケランジェロと勝手に思っている、仏師・運慶の作品も結構観れました。
運慶の前の仏師は、霊体の仏の姿を具現化していると思いますが、運慶の仏像は、霊体の仏が物質化して肉体を持って現れて、実際に存在してるよう感じます。リアル以上のリアルがあります。
当然、運慶も朝廷や武士から依頼されてるわけです。
運慶の傑作に、願成就院の毘沙門天像があるのですが、黒光りの肉々しい凄まじさです。
その3年後に出来た、浄楽寺の毘沙門天像があります。より改善しようと躍動感あるのですが、近くで見るとどうもクオリティ下がります。
ここで想像してしまいます。
願成就院の毘沙門天を見た誰かが、ウチにも同じモノと依頼し、自己更新を狙った運慶ですが、期間の短さなどあり、どうも不本意ながらに納品して心残りがあるんじゃないかと。
こうやって制作者の想いを勝手に想像するのが面白さです。


趣味の話を長々と書いてしまいました。
私の勝手な考えですが、芸術といえども傲慢にならず、見えない相手とのやりとりを想像しながら創造すると、自分の内面と普遍性が繋がり、相手を魅了するモノが出来るのだと考えます。
スピリチュアルな話みたいです。



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