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コイントスして決める自分の選択で死に至る病


何を選択するべきか、多くの人が悩みます。
その時にするある考え方があります。
「自分が選択したものが、正しい」
あれが正しいのか、これが間違ってるのか、ではなくて、決断したものが正しい、という考え方です。

この考え方は後悔を生まず、有効なように思いますが、何か引っかかります。
自己責任という重しが心にドシンと乗っかってきます。
人の選択したものを行うと、うまくいかなかったときに責任転嫁ができ、うまくいったときは自分の手柄にできます。楽ですね。
動物の世界にも責任転嫁の行動が観測されます。その1つが八つ当たりです。勧められた行動では無いですが精神の荒廃を避ける手段として動物さえもやっています。

人にとっても100%自己責任というのは真実だけど重く苦しいものです。
宇宙に委ねる手段としてコイントスで決める、世界中で行われる方法です。コインのせいに出来ます。運命と割り切ります。
イスラム圏では、インシャーアッラー、「すべてアラーの思し召し」という考えもあります。
「神様が望めばね」となります。

キルケゴールは、選択を哲学します。
著作「あれか、これか」では、悩んだ上で選ぶべき道は決まっている、自分自身を選ぶ感じです。
著作「選択の悩み」では、人間は選択して決意した瞬間に飛躍する、という感じです。
さすがキルケゴール、「死に至る病」の肉体の死をも越えた苦悩する「絶望」を肯定します。
「自分が絶望であることを知らないでいる絶望」が入口なほど、目先の選択は絶望で、選択の先の「罪としての絶望」を超えて訪れる希望です。


自分で決断するのはしんどいものです。
「自分が選択したものが、正しい」ならば、
「自分がどれを選択しても、正しくもない」となりもするでしょう。
だからこそ、「しんどい決断したあなたが正しい」のかもしれませんね。
選択の是非を越えて。

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