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李琴峰新刊『生を祝う』試し読み

 ※この記事は、2021年12月7日に刊行された李琴峰の新刊『生を祝う』(朝日新聞出版)の試し読みです。

 日本で「合意出生制度」が確立されたのはちょうど私が生まれた年、今から二十八年前のことだった。

 五十数年前、「失われた三十年」の末に日本が迎えたのは、世界を席巻する流行り病の災いだった。収束まで五年もかかり、世界人口の三分の一が失われたと言われるその災禍が、もともと不況だった日本経済を一気にどん底へ叩き落した。多くの国民が職を失い、国全体が食糧不足に陥り、街に出ると病と飢餓で亡くなった人の死体がごろごろ転がっていたという。

 疫病の収束後、政府は失政の責任を問われ、政権交代がなされた。それまでの排外的な政権とは打って変わり、新しい政権は諸先進国に倣い、海外からの移民を積極的に受け入れる方向へ舵を切った。「日本は外国人に乗っ取られる!」と一部の保守派が騒ぎ立て、反対運動も行われたが、結果的に流入した移民は日本経済を奮い立たせ、「第二次高度経済成長」の実現へと繋げた。国際結婚がブームになるまでそれほど時間はかからず、今に至っては日本国民の半数がダブルの子供だと言われる。

 疫病の時代は、かつてないほどに死が全ての人間と隣り合わせの時代でもあった。いつ、どこで、どのように死んでいっても不思議ではないという現実は、人々の死生観を大きく変化させた。それまでも人々は、死はいつか到来するものだと頭で分かっていても、どこか他人事のように感じられ、ほぼ無条件に、本能的に生を喜び、死を忌避していた。しかし、病による死の苦痛と予測不可能性に直面した時、人々は死を身近なものとして感じるようになり、せめて死ぬ時間と場所、そして死に方くらいは自分で決めたいという強い渇望を抱くに至った。その結果、安楽死の合法化を求める運動は世界各地で巻き起こり、大きなうねりを作った。その思潮を象徴する最も有名なスローガンは、「Retrieve the Death Autonomy from the Moirai.(死の自己決定権を運命の女神から取り戻せ)」というもので、「自由」という花言葉を持つアスチルベが運動のシンボルとなった。

 運動が功を奏し、数年後、世界の主要国が次々と安楽死法案を可決させていった。死を望む人は特段の理由がなくても、お金さえ払えば誰でも苦痛なくこの世に別れを告げられるようになった。

 死の自己決定権を手に入れた人々は、次は生について考えを巡らせるようになった。アメリカでの画期的な裁判がその発端だった。「同意を得ずに自分を産んでしまった」として、男性が生みの親を提訴したその裁判は十年の紛糾の末、男性の勝訴判決が連邦最高裁から下され、両親は裁判費用と男性の安楽死費用を負担しなければならないという結果となった。その裁判は通称「合意なき出生裁判」で、「生の自己決定権」にまつわる世論を刺激し、「生まれない権利」を認めようという世界的なムーブメントへと繋がった。こちらも大きなうねりになり、「出生前の胎児に出生意思の有無を確認するための技術」の開発を目指す研究プロジェクトが世界中から立ち上がった。

 数年後、日本の研究チームが前世紀の言語学者・チョムスキーが提唱した「普遍文法」という概念に着目し、大きな成果を挙げた。普遍文法とは、あらゆる人間に生得的に備わっている抽象的な固有文法のことで、人間が幼児期に第一言語を効率的に習得できるのはそのような文法を生まれつき持っているからだとされている。日本の研究チームは、「普遍文法」は妊娠九か月目の胎児に既に備わっているということに気付き、その文法の解明により、胎児と極めて簡単な意思疎通を行うことに成功した。その研究成果は世界から賞賛を浴び、ノーベル賞も受賞した。

 更に数年後、胎児に出生の意思があるかどうか確認するために必要な諸技術はいよいよ成熟し、実用化された。それに伴って、世界各国は「合意出生制度」の立法に乗り出した。日本では「無差別出生主義者」と呼ばれる保守派(彼らは自分たちのことを「自然出生主義者」と呼んでいるが)からの反発もあったが、交代後の政権は世界の新しい思潮をどんどん取り入れていたし、そもそもこの技術は日本の研究成果によるものだったので、日本政府は立法にとても積極的だった。おかげで日本は世界三番目に「合意出生制度」を法制化させる国になった。世界主要国での立法が概ね完成した翌年、アメリカ大統領は一般教書演説でこのことに言及し、こう述べた。

「人類の歴史のほとんどの時間において、人間は自らの意思と関係なしに生を押し付けられ、出生という、ややもすれば大きな不利益に繋がりかねない営為を強制されてきた。かのハンムラビ法典では子供は親の財産とされ、子を産むことは、財産を作ることと同義だった。ちょうど家畜を繁殖させるのと同じだ。近代以降、我々人類は不断の努力により、自由権や平等権を大きく向上させてきたが、その射程は生の自己決定という聖域に及んだことはこれまで一度たりともなかった……『合意出生制度』の確立によって、我々人類はいよいよ究極の、つまりは生と死に関する自己決定権を完全に手に入れることに成功した。これはフランス革命以来、人類史上最大の人権回復の成果だ」

 ――これらはどの中学の歴史教科書にも載っていることだが、小学校高学年の授業では、もっと噛み砕いた言葉で「合意出生制度」について教えられている。

「昔の人たちは『生まれない権利』や『生の自己決定権』といった考え方を持っていなかったから、子供は自身の意思と関係なく、どんどん生まれていった。ほんとに可哀想な時代だったね」

 五年生の時の社会の先生が言った言葉は今でも覚えている。「子供は人間として、命として見なされていなかったんだ。だから人権というものがなかったんだよ。みんなは色々、欲しいものがあるんでしょ? おもちゃが欲しいとか、お小遣いが欲しいとか、ね。昔の人は、まさに『お金が欲しい』『おもちゃが欲しい』みたいな感じで、『子供が欲しい』と言っていた。『美味しいものが食べたい!』『面白いアニメを観たい!』という感覚で、『子供を産みたい!』と言っていた。『自分の血を受け継いでほしい』『家業を継いでほしい』『自分が年を取ったとき面倒を見てほしい』『働き手を増やしたい』、そういった自分勝手な願望で子供を産む人も多かった。当時の人たちは、『出生の強制』という概念がなかったから、子供の意思を確認しないで子供を産むことは、『強制』だと思われていなかった。今とはだいぶ違うね」

「先生!」
 クラスで一番成績がいい女子が手を挙げて質問した。「生まれたくないのに生まれてしまった子供たちは、どうすればいいですか?」

「どうしようもないね、可哀想だけど」
 先生はいかにも悲しそうな表情で言った。「先生が子供だった時は、まだ安楽死も合意出生制度もなかったから、よく覚えてるよ。生まれたくないのに生まれてしまった人は、頑張って生きるか、自殺するしかなかった。だから自殺する人が多かったんだ。今なら安楽死もできるけど、高いから誰でも簡単にできるわけじゃない。先生だって、合意の下で生まれてきたわけじゃないから、なんとか今まで無事生きてこられたのは、ほんとにラッキーなことなんだよ」

 そこまで言って、先生の顔にはふっと暗い影が差した。
「そういえば、皆さんの中にも法律ができる前に、意思を確認されないで生まれてきた人がいるんだね」

 合意出生制度はちょうど私が生まれた年にできたから、私と同学年の人には制度ができる前に生まれた人とできた後に生まれた人、どちらもいた。私はぎりぎり確認された上で生まれてきた方だ。

「意思を確認されないで生まれてくると、この先色々な困難に出くわすかもしれない。本当に辛い時に、安楽死を選ぶのは決して卑怯なことじゃない。もちろん、先生としてはなんとか頑張って生きてってほしいかな」
 と、先生は神妙な顔で言った。「そして大人になったら、子供を産む時は絶対に子供の意思を尊重してね。『人から命を奪う』殺人と同じで、『人に命を押し付ける』出生強制は、絶対にやっちゃいけないことなんだ。分かったかい?」

 教科書の本文の横にある小さなコラムに「出生強制罪の法律」の欄があり、刑法の条文が記載されていた。

〈第三百六十六条 子の出生意思の有無を確認しないで、又は子に出生意思がないと確認したにもかかわらず、なお出産をした者は、無期又は五年以上の懲役に処する。
 2 前項の出産事実があったとき配偶者であった者も、現に婚姻関係の有無にかかわらず、前項と同様とする。
 3 自ら生殖能力を放棄することによって再犯しないと誓約した場合、その刑を減軽し、又は免除することができる。
 4 この条の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。〉

 その下に、補足として「刑事責任とは別に、民事裁判が起こされた場合、出生強制された子の安楽死費用を負担しなければならない可能性もある」とも書いてあった。

 私は、自分が意思確認された上で生まれてきてよかったと思う。自分の意思で生まれてきたからこそ、本当の意味で世界を愛することができるし、本当の意味で自分の生を喜ぶことができる。

 もちろん、生きていく上で様々な挫折はあった。子供の時、両親が姉ばかり依怙贔屓し、私にはきつく当たっていたのが辛かった。高校の時、好きになった先輩に告白したら思い切り振られて、悲し過ぎて一週間も自分の部屋に引きこもり、ほとんど食事が取れなかった。大学入試の時にケアレスミスをやってしまい、僅かな得点差で第一志望の学科に入り損ね、悔しくて手首を切りたくなった。実家を出て一人で上京した大学時代、一回、風邪が悪化して肺炎になり、誰もいない空っぽの部屋で一人で苦しみ、こんなに苦しむくらいならいっそ死んだ方がマシだと思った。今だって、仕事の悩みがたくさんある。職場の人間関係とか、仕事が正当に評価されないとか、スキルが思うように上がらないとか、数えたらキリがない。それでもどんな挫折も耐えてやろうという気持ちになれたのは、この人生は他でもない、自分が選んだものだからだ。この人生は始まりから終わりまで、丸ごと自分のものなのだという事実が、私を支えている。生まれる前に〈同意(アグリー)〉を出した証明である「合意出生公正証書」は、今でも大事に取ってある。意思を確認されず、あるいは意思に反して生まれてきた子供たちが辛いことに遭った時、一体何を心の支えに生きていけばいいのか、私には想像もできない。私だったら、自分の人生、そしてそんな人生を押し付けてきた親を憎んでしまうに違いない。実際、意思確認を経て生まれてきた人より、意思を確認されずに生まれてきた人の方が、自殺する、あるいは安楽死を希望する比率が高いというデータもある。

 それに、「合意出生制度」は子供にだけ優しい制度ではない。自分が妊娠してみてはじめて体感として分かったが、これは親にとってもとても優れた制度だ。親たるものは当然、自分の子供に幸せな人生を送ってほしいと考える。もし子供が自分の人生を憎んでしまったら、親もまた自責の念に苛まれるに違いない。また、「合意出生制度」がまだなかった時代に、先天的な障碍を持つ子供を産んだ親はしばしば「健全な身体で産んであげられなかった自分が悪い」というふうに、自分を責めていたと聞く。しかし、今はその出生が子供自身の意思によるものだと確認できる。親の心理的負担はかなり軽減され、本当の意味で我が子の出生を喜ぶことができるのだ。

 あの授業を、先生は感慨深げにこう結んだ。
「『合意出生制度』のおかげで、人類は本当の意味で、心の底から子孫の出生を喜ぶことができるようになったんだ」

(続きは書籍で)

子どもを産むために、その子から同意を得る必要がある「合意出生制度」が法制化されている近未来の日本を舞台とする李琴峰の新刊小説『生を祝う』、発売中!

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