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私は私のままで結婚したかった.2

 「私は私のままで結婚したかった.1」に、過去と未来の花嫁/花婿さん達を含む何人の方々から共感の声を頂いた。嬉しかった。
 ウェディング業界さん、これってチャンスなんじゃないだろうか。今LGBTsフレンドリーな結婚式会場が特集されたりするけれど、同じように花嫁フレンドリーな会場も売りになるんじゃないだろうか。
 結婚式ってそもそも花嫁花婿が主役のはずなのに、花嫁フレンドリーな会場が売りになりそうな現状っていうのもなんのこっちゃって感じだけど。

 そういえば改姓については、たまたま私が元々の自分の名字が嫌いで、夫の名字が美しかったから、喜んで改姓した。
 実家やそれにまつわる田舎の風習がまとわりついている旧姓は私にとっては抑圧の象徴でしかなくて、手を伸ばしたら名字を自分で選びとれる自由に私は飛びついた。
 でもこれって、たまたま、本当にたまたま、私が旧姓が嫌いで、改姓が抑圧から逃げ出す手段の1つで、尚且つ夫の名字が美しかったから起こりえた現象にすぎないのだ。
 もしも私が実家に思い入れがあったり、旧姓が綺麗な形の漢字で形作られてたら、夫も私も長子ということも相まって、深刻な結婚の障害になったと思う。
 ねえ、もうすぐ2回目のオリンピックが開かれる未来に生きている私たちが、「家族の絆が~」なんてよく分からない理由で、夫婦のどちらかが改姓しないといけないの、今まで一緒に生きてきた名字を捨てないといけないの、本当に馬鹿らしいことだと思いませんか。
 名字が違えば本当の家族になれないっていうなら、名字を変えた側は、もう元々の家と家族じゃないんだろうか。
 配偶者への愛と、実家への愛を天秤にかけろだなんて、そんな意味のない踏み絵を踏まされてまで結婚しようって人、もう少ないんじゃないだろうか。結婚する人を増やしたいのなら、官製婚活なんてやる前に、まずそれぞれの夫婦に好きな形を選べる自由を渡したほうが、ずっと効果的なんじゃないだろうか。

 繰り返し書くけれど、これは私が辛いと感じたことを書いている記事に過ぎないから、貴方の幸せを否定するものではないのだ。
 貴方自身や、貴方の配偶者が、改姓に結婚の喜びを見出すのなら、それはとても素晴らしいことだと思う。
 そして、貴方のその喜びが素晴らしいものであるのと同様に、元々の自分の名字を愛する人の喜びも素晴らしいことだと思う。だってその人は今までの人生その名前で生きてきたのだもの。
 幸せのかたちって人それぞれ違うんだ。例えそれが「家族」や「結婚」という何千年と続いてきた営みだとしても、慣習や伝統の枠に収まりきらない幸せのかたちが、いくつも、いくつもあるんだ。
 和食が好きな人もいれば、フレンチが好きな人も、中華が好きな人もいて、好みは人それぞれで、それを認めているからこの国の食文化は豊かで、大抵どこで何食べても美味しい。
 そういう当たり前のことを、早くこの国が認めてくれればいいのに、っていつも思う。

 閑話休題。
 そんなわけで、改姓については特に困難はなかったのだけれど、招待状の形式を決めたあとも、結婚にまつわるあれやこれやは怒涛のストレートパンチを繰り出してくる。
 ある日の打ち合わせで、式当日のムービーを決めることになった。+何万円の追加料金で当日のムービーを会場が撮ってくれるあれだ。
 ムービーのサンプルを観せてもらったら、降り注ぐ日光に照らされて、牧師様が「夫に従うことを誓いますか」と厳かな笑顔で問いかけていた。映像の中の花嫁さんは、白いウェディングドレスに身を包んで「はい」と幸せそうに答えていた。
 私の心臓は何発目かの銃弾に打ち抜かれて、瀕死の状態になった。辛い。辛い。ああ無情。
 田舎の家制度で20数年間苦しんできた母親の前で、家に主人に従えと強要され続けた末にようやく逃げ出せた母親の前で、一人娘が「夫に従いますか」「はい」と誓うことを考えると、その時の母親の気持ちを考えると、あんまりにもあんまりで、それだけで泣きそうになった。もうなんか、本当、色々と辛かった。レミゼでも歌いだそうか。
 誓いの言葉から「夫に従う」という文言を抜いてもらえませんか、とプランナーさんにお願いした。プランナーさんは、結婚という幸せの只中でそんな小さなことにこだわる理由がわからない、という顔をした。
 社会人としては普通に卒のないプランナーさんだった。きっとブライダル業界のまんなかに身を置いているから、「結婚」というものの常識に疑問を持つこともなく働いてらっしゃったんだと思う。東京の丸の内の真ん中でハシビロコウに遭遇したみたいな表情をされた。
 結局プランナーさんは何が問題なのかいまいちピンとこなかったみたいで、当日担当してもらう牧師さんと直接お話することになった。
 平日は仕事が忙しかったから、土曜日の朝に、電話で牧師さんとお話した。私は厳格なクリスチャンではないけれど、神さまは信じている方だから、なにかとても大きなものに失礼なことをしているのではないかと、電話するときは泣きそうになって手が震えた。面倒な花嫁だと思われるだろうなとか思考がぐちゃぐちゃになった。夫はずっと手をつないでくれてた。
 牧師さんは穏やかな声で、聖書にある言葉だから現代的な男女差別を意図したものではない、とおっしゃった。知ってます、と私は答えた。
 それから、それを知ったうえで、聖書にある言葉だとしても、母親の気持ちを考えるととてもそうは誓えないこと。
 夫とは一緒に生きていくけれど、せっかく私は自分で考える能力をもった人間として生まれてきたのだから、夫に従うのではなくて、夫と一緒に考えて悩んで人生を生きていきたいこと。夫に、私の分の人生まで丸投げする重荷を背負わせたくないこと。
 イギリスのロイヤルウェディングでさえ、伝統的な「夫に従う(obey)」という言葉の慣習を捨てて、最近は「夫を慈しむ(Cherish)」という言葉を使っているのだから、東アジアの黒い目黒い髪の国に生まれた一庶民の私が伝統に従う必要性は無いのではないかということ。
 そういったことを、震えてしまう情けない声でひとつひとつ伝えた。途中で、なんで幸せなはずの結婚でこんな苦労をしているのだろう、と押しつぶされそうに泣きたくなった。
 どこまで伝わったのかは分からないけれど、とりあえずこいつは「夫に従う」という文言が嫌なんだな、ということは分かってもらえたみたいだ。牧師さんは穏やかな声のまま、分かりました、と言ってくれた。安心してどっと力が抜けた。
 私が「夫に従う」と誓わないことで神さまは怒るのだろうか。分からない。でも、私が自分の心で感じて自分の頭で考えて生きること、この世に生まれたひとりの人間として与えられた心と頭をフル回転させて生きること、そういった姿勢を、私をこの世に送り出した神さま自身が否定するだろうか。
 与えられた心と頭で考えることを否定するのなら、神さまは何のために人間を作ったのだろうか。分からないけれど、とりあえず私たち夫婦はお互いのことが大好きだし、今のところは幸せに笑って生きている。

 ・・・・・・・

 長いね!明日も仕事なのでこのあたりで止めておこうと思う。まだ文字に残したい記憶はいくつかあって、あと2つくらい記事は続きそう。
 マリッジブルーにはなったけれど、結婚式は快晴で、夫が作ってくれたカサブランカのブーケがよく映えた。白いドレスは歩きづらかったけれどレースが嬉しかったし、白いタキシードを着た夫は美しくて、よくこんなイケメンがこの世に存在してるな、と感嘆した。
 結婚式自体は楽しかったのだけれど、それに至る過程が辛すぎたので、お時間のある方はまたふらっと読んでいただけるととっても嬉しい。

 最近は夫婦でハリポタアプリのゲームのホグワーツミステリーにはまってる。
 和訳が時々むちゃくちゃで笑えるけど、ホグワーツの生徒になれる夢みたいなゲームだから、昔魔法の世界に憧れた貴方にもお勧めです。

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