見出し画像

私は私のままで結婚したかった.3

 しとしとと降る雨の音が美しい6月ですね。
 とっても有難いことに、前回前々回の記事を何人もの方々が読んでくださった。
 広まるにつれて、「そんなに嫌なら結婚しなきゃいいのに」「そんなに嫌なら結婚式やめればいいのに」という、いつもの無遠慮な言葉を頂戴する機会も増えた。
 うん、そうなんだけど。そうなんだけど、そうじゃないの。ちょっと立ち止まって聞いてほしい。
 今の結婚式の様相を「嫌だ」と感じる人を排除して、従来のままの結婚の風習を守るのは、自分が臭いと感じるものに蓋をすることは、短期的には楽かもしれないだろうけど、長期的に、果たしてそれでいいのだろうか。
 「嫌なら結婚しなきゃいい」という吐き捨ての言葉は、すべてが右肩あがりの時代には通用したかもしれないけれど、現代にはもう通じない。 
 結婚する人が減って、社会の構成員の数が激減していて、ブライダル業界も大局的には斜陽産業だ。 
 「嫌なら結婚しなきゃいい」なら、結婚しないよ。だって結婚しなくても、好きな人と、若しくは1人で、自分の好きなように生きるのはいくらだって可能な時代だもの。結婚は幸せの必要条件じゃない。そんな脅しの言葉が通じる窮屈さは、もうあっけなく過ぎ去ろうとしている。
 どうかそういう2018年の今の視点で一度考えてから、言葉を発してほしい。
 「嫌なら○○しなきゃいい」というお決まりの言葉は、そのうち社会の構成員の1人である貴方自身に跳ね返ってきてしまうから、言葉を発する前に、一度、息を吸って考えてくれると嬉しい。

 さて、神さまとの約束の言葉もどうにか落ち着いて、式の後の食事会の構成を決めることになった。
 披露宴は結婚式とは別の会場であげることを決めていたから(この披露宴は最初から最後まで最高に楽しく挙げられたので、いつか書きたい)、結婚式の後は、ドレスとタキシードのまま、会場内にあるレストランで出席者で食事会をすることになった。親族だけのミニ披露宴を想像してもらえるとわかりやすいと思う。
 打ち合わせのある日、例によってプランナーさんに提案された食事会の構成が、
 ウェルカムスピーチ:新郎
 (中盤:新婦からの手紙)(省略可)
 謝辞:新郎
 っていう、社会がこねこねと数十年かけて作った「幸せ」の定番だったので、私の心臓は何度目かの銃弾にパーンッと撃たれた。すごい、百発百中だ。
 プランナーさんもその頃は、私がなんだか幸せを人任せにしたくない花嫁だと分かってくれていたみたいで、「話したければ、途中で新婦からの手紙を読むこともできますからね!」って優しく言ってくれた。
 ううん、違う、違う。そうじゃないの。悲しくって、悲しくって、そろそろ悲しみが広がって海になりそう。
 前にも書いたけれど、私も夫も、同じくらい頭がいい。同じくらい世間知らずだけれど、同じ人間だもの、同じ言葉で話ができる。
 私は女だ。女だけれど、頭も、心も、口もあって、私はきちんと自分の言葉を使える。夫に頼まなくたって、人生に一度の結婚式で、縁のある大切な人々に伝えたい宝物みたいな気持ちを、自分で伝えられるし、伝えたい。
 ていうか今までずっとそうだったもの。ゼミのプレゼンでも、卒論の口頭試問でも、就活の面接でも、バイト先でも、私は自分の言いたいことを、考えたことを、自分自身で人に伝える必要があったし、伝える力がある。
 当たり前だけれど、「彼氏だから」って、一度も当時の夫がそれを代わったことは無かったし、夫も夫で、同じように自分のゼミの発表や、卒論や、就活の面接で大変なのだから、「代わってほしい」なんて発想もうかんでこなかった。
 私は夫のことが大好きで、夫もきっと私のことを好いてくれているけれど、それでも私の心は私のもので、夫の心は夫のものだ。その境界線は神さまだって侵せやしない。
 面接やプレゼンが結婚式に変わったからといって、いきなりウェディングドレスや白無垢を着た、綺麗なだけのお人形には私はなりたくなかった。人間のままでいたかった。綺麗なお人形より、私は自分の頭で考えて心で感じる、人間のままでいたかった。
 どうして「結婚」「家族」という言葉に繋がるだけで、夫が私の言葉を代弁しないといけないのだろ。
 どうして花嫁はドレスを着て挨拶をしてはいけないのだろ。
 どうして夫は新郎の手紙を読んではいけないのだろ。私の母が私を育てたように、夫の父母は夫を慈しみ育てたのに、そのおかげでこんなに素敵な人が今日この日こうして立っているのに、どうして新郎の手紙はないのだろ。
 しなやかな言葉。優しい言葉。拳銃のように小気味の良い言葉。言葉。言葉。
 どうか私たちから言葉を奪わないでほしい。ウェディングドレスのレースで身を飾ったからと言って、タキシードに花を一輪刺したからといって、好きな言葉を好きなように自分の口から紡ぐ自由を奪わないでほしい。

 結局「あまり見ない形式ですねー…」と笑顔がひきつるプランナーさんを夫とどうにか説得して、ウェルカムスピーチは2人、新郎新婦からの手紙はそれぞれの両親に手渡して、謝辞も2人でやった。
 私は真っ白なドレスを着て、ブーケを片手にマイクを持った。夫はタキシートにブートニアをさして、両親に手紙を渡した。
 2人とも同じ形で、それぞれの大切な人たちに自分の愛を手渡せて、本当に良かった。

 そういえば当日の朝、結婚式の会場に向かう車の中で、「結婚式 スピーチ 花嫁花婿 例文」でググったら、社会の考える古式ゆかしい「幸せ」を集めてごりごり煮て冷ました煮こごりのような例文ばかりがヒットしたので、まさかの当日の朝にマリッジブルーが最高潮に達した。
 ぱっくりと口を開けて待っている社会に呑み込まれそうで、「良妻賢母」という石膏に自分の身体が塗り固められて、人間から物言わぬ石膏像になってしまいそうで、マリッジブルー極まった花嫁は車の中で鬱々と吐きそうになった。
 いや、今思うと当日の朝にスピーチ考えていた私たちも悪かったのだけれど。ちょうど挙式の頃、披露宴の準備がピークに達していて、毎日夜更けまで頑張ってふらふらだったので許してほしい。
 泰然とした現代っ子の夫は粛々と「妻がマリッジブルーなう」とSNSで呟いて、共通の友だちが何人も励ましのコメントをくれたので、私はどうにか持ち直した。コルセットをつけてパニエを履いてドレスを着て花嫁になった。友だちって大事だ。
 この記事を書くために思い出そうと、さっき当時と同じキーワードで調べてみたんだけど、今は新郎新婦いっしょに行うスピーチの例文も多くて、普通に幸せいっぱいの言葉で溢れているんですね。この2年間で確かに地球は前に進んでいるなぁ、と花束をもらったみたいに嬉しい。
 結局例文は参考にしないで、ちょうどその日の夜は流星群が降る日だったので、謝辞は「流星群がきっと綺麗なので、ぜひ見てくださいね」っていう、結婚式とはあまり関係のない締めの言葉になった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 長いね!結婚式の話はこれで一旦終わりです。いつかとても楽しかった披露宴の話も書きたい。そっちはBGMが自由だったので、ミュージカルオタの花嫁は新婦中座にエリザベートの「私だけに」を使いました。さすがにドイツ語verにしたけれど。

 最後に惚気けてもいいでしょうか。
 人生のうちでお祝いする日を増やしたくて、入籍・結婚式・披露宴をそれぞれ別の日にやったんだけど、今日はそのうちの入籍記念日だ。
 「ご主人」にも「奥様」にもなりたくなかった私たちは、幸いなことに、個人と個人のまま仲の良い夫婦で、夫が記念に花束とケーキを買ってきてくれた。ささやかなお祝いの嬉しさににこにこしてしまう。
 ケーキはともかく、自分をイメージした花束をもらうのなんて初めてで、嬉しくて月曜日の憂鬱さもさよならばいばいまた来てね。

 夫から、「向日葵は、趣味という名の太陽に向かって全力疾走していく妻さんを表現している」と幸甚の至りのお言葉を頂いたので、これからも楽しく生きていきたいって思う。
 とりあえず今度の週末は帝劇のモーツァルト!だし、月組のエリザベートのためにムラへ遠征しないといけない。ハリポタの聖地巡りのためにお金も貯めないと。当分向日葵は枯れずに、太陽に向かって愉快に暮らせそうだ。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?