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記憶のなかにある〈私〉。

 たぶん結構大事な問いとして「私とは何か?」というものがあると思っています。いかにも哲学っぽくて縁遠い問いのように思うかもしれませんが、実は最も身近な問いのひとつなのかもしれません。ひとつには、「私はこういう人間である」ということをどこかで自認しながら生きているように思うからです。「私はこれができる」とか「これは好まない」とか、得手不得手や好き嫌いをどこかで自認しています。
 そしてその自認は記憶に基づくものであるように思っています。記憶とは過去の出来事を正確にレコードしたものなのか、あるいはその後の出来事やその時の気分や身体状態で呼び起こされるものが変わってしまうものなのか。記憶に対する理解は〈私〉への理解に影響しそうです。

 もう少し話を広げてみます。
 その記憶を作るもととなる経験には遺伝子が影響しているとも考えられます。遺伝子は身長や顔つきや足の速さなどの身体的な特徴だけではなく、性格やこころにも影響していると考えられています。だから好き嫌いやコミュニケーションの取り方などにも影響しているのだと思います。そしてそれらの個人的な特徴は各行為に影響を与え、それが経験を生み記憶となり〈私〉の一部として蓄積されてきているのかもしれません。ある意味では遺伝子が〈私〉そのものであるとも言えるのかもしれませんが、自己認識できるレベルでいうと「こういう遺伝子を持っているのが〈私〉である」とは言い難いようにも思います。なぜなら、遺伝子とはATGCという塩基の羅列であり、また一つの遺伝子で例えば「足が速い」という特徴を生むわけではないと考えられているからです。見た目だけでは無機質で、それらは複雑に絡まり合って働いています。
 また、一方で〈私〉というのは内在的な記憶だけを基点に認識されているのではないと思っています。例えば、地方出身であれば東京ではなく地方出身であるという何らかのレッテルが貼られます。しかしそれは外的なイメージを自分に当てはめて自分はそういう人間であると思っているだけかもしれません。あるいは自分が好きになったスポーツがたまたまマイナースポーツだった場合は、自分はマイナーなことが好きなのだと思うかもしれません。でもそのスポーツを好きになるかや得意になるかは、遺伝や環境の結果なだけであって、そのスポーツがマイナーであるのはその社会でそれがマイナーであっただけということも言えます。つまり、それがもつ社会的イメージを自分が結びついているそれにつなげて、マイナーなものを好む自分像を形成しているだけの可能性もあります。〈私〉とは遺伝や記憶といった内在的なものから作られる側面もあると思いますが、社会的なイメージを自分に重ねてそう思い込んでいるという側面もあると思います。

 社会的イメージは距離をとって捉え直すことができるようにも思います。例えば最近では性別と社会的役割の固着が解かれ始めているのだと思います。社会的カテゴリーによる偏見を取り上げた本なども出ているのでそれを読んだりして自分の違和感や常識を見つめ直すことができるかもしれません。そして同時に、そのカテゴリーが〈私〉と深く関係するものであった場合、〈私〉自身を見つめ直すことになります。性別や職業などの社会的イメージが変わることで〈私〉の周囲からの見られ方や〈私〉の〈私〉に対する見方に変化があるとき、〈私〉は周囲との関係のなかに存在しているということを認識することになるのかもしれません。
 それに対して、もうすこし内在的な〈私〉はどうでしょうか。遺伝子というのがその設計図をもとに絶えず〈私〉を複製し続けるものであるとすれば、記憶は過去からの蓄積です。遺伝子にもエピジェネティクスといって、環境やそれによるストレスによって複製のされ方に変化が生じたりしますが、ここでは記憶との対比のなかで時間の蓄積が薄い〈私〉の複製システムであると見ておきます。〈私〉の蓄積としての記憶は、過去の想起が伴う思考や判断や、無意識的な価値観などにも影響しているかもしれません。その記憶というものが、〈私〉の周囲で起きたことをただ純粋にレコードしてきたものなのか、10年前に思い出したそれと今思い出したそれとは同じものなのか、それは微妙な気がします。「私はこうやって生きてきた」「私はこういう人間である」というようなイメージに影響していそうな記憶に興味があります。

(よしだ)

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