禅とは 鈴木大拙を考察する後編

即非の論理

悟りの境地へいたるための道はいくつもあるが、特に禅の根幹となる論理として「即非の論理」というものを考える。
「AはAだというのは、AはAでない、故に、AはAである」
公式化すると、「A=A、A=非A、故にA=A」 なんともはや、不可解な論理である。
しかし物は考えようで、このようなアプローチで見てみよう。
過去から現在が生まれ、
現在から未来が生まれるのは当たり前だ。

しかし、逆もまた然りなのだ。 未来がなければ、現在は現在であると定義できない。現在と未来というものがなければ、過去は過去と言えない。


畢竟


未来は現在を現在として構築、 現在は過去を過去として構築。
過去→現在→未来と過去←現在←未来が相互依存の関係にあるのだ。
つまり未来は現在と過去の全てを含み、 現在は未来と過去の全てを含み、過去は現在と未来の全てを含むのだ。よって、過去=現在=未来。
原因→結果であると同時に原因←結果であってしかも原因=結果である。
ヘーゲルの弁証法に近似するものがある。


日本の問題


「あれはきっと、ドイツ式の政治思想を受け入れたせいだろう」

鈴木大拙は、西洋流の思考だけでは世界は立ち行かなくなる時が必ず来る。だから西洋の人間に向けて、東洋の思想というものを伝えて行かなければならない、と指摘する。東洋思想の教えを読み解くうちに、西洋思想の限界を感じたのである。そこに東洋思想が調和しなければ、世界は滅びてしまうであろう?と。

確かに21世紀になった現代の世界を見れば、生産力と合理主義に貫かれた西洋的な文明は、危機に瀕しているとしか言えない。だからこそ、自然ひとつをとっても、「自然を人間のために征服し、造り替えていく」、などという風には考えずに、おのずからそこにある自然に従い、調和し、人間と一体となって生きようとする、東洋的な思考法が大切なのである。


大拙の問題


問いを解くとは、それとひとつになることである。この一つになることが、そのもっとも深い意味において行われる時、問う者が問題を解こうと努めなくとも、解決はこの一体性の中から、おのずから生れてくる。その時、問いがみずからを解くのである。これが、「実在とは何か」という問いの解決についての仏教者の態度である。

 すなわち、両者が一となる時、それらがその本来の状態にかえるとき、を言う。さらに言えば、それらが、まだ主体と客体の二つに分たれない原初の事態に立ち帰る時・・・分離が行われる以前、世界創造の以前・・・これが、論理的証明の形においてでなく、自己の現実の体験において。解決が可能となる時である。(中略)

 そして大拙は体験を重視する。

・・・・・ともあれ、仏教者は“悟り”の体験をひたすら強調する。そこからはじめて、すべての問題の解決がもたらされるからである。何らかの形で知的分離が行われているかぎり、問いはけっして答えられないであろう。何か答えはあったとしても、それは真の意味での答えではないであろう。なぜならば、それは仮定としての答えであって、事実としての答えではないからである。

 しかし、どの仏教者が”悟り”の体験を強調したと言うのか。私の知る限りそんな仏教者はいない。禅宗の高僧で”悟り”の体験を強調する仏教者は微塵も出てこない。このような体験主義は些か説得力に欠けるのではないか。

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