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【進歩派のジレンマ】多文化主義と所得再分配が両立不可能である理由

現在の日本は、直近の入管法改正においても見られるように、移民や外国人労働者についての政治的な課題が山積している状態です。このことは、どの政治的立場からも異論がないと思われます。その中で、リベラル派は、「外国人との多文化共生を推進してくべきである」という、多文化主義に基づく主張を強く展開しています。(一例として、日本の代表的なリベラル政党・立憲民主党の政策「多文化共生社会(外国人)」を挙げておきます。)

しかし、そのような主張に対しては、既に20年近く前から、深刻な疑念が呈されています。英国のジャーナリストのデイヴィッド・グッドハートは、2004年に出した”Too diverse?”というエッセイにおいて、「進歩派のジレンマ」と呼ぶリベラル派の矛盾を指摘し、大きな論争を呼びました。今回はその議論をご紹介し、多文化主義が如何に問題を孕んでいるかを見ていきたいと思います。

民族の多様性が社会の連帯意識を奪う

彼の議論は、大要以下の通りです。

リベラルな社会では、民族や宗教に関わらず、すべての人を平等に処遇し、すべての人に福祉や教育サービスを提供することが理想であるとされ、そのような社会の状態が目指される。ところが、移民や難民が大量に流入し、民族多様性が増すに従って、これらの政策への支持を維持することが難しくなる。

なぜなら、人間とは、一定の集団の枠内で連帯意識を育み、お互いに助け合おうとするものだからである。自分たちとは全く異質な文化・価値観・行動様式を持つ他者が増えてしまうと、その連帯意識は掘り崩されてしまう。

特に、言語や文化の異なる移民や難民は貧困層に陥ることが多いため、次第に「再分配は自分たちではない移民=「彼ら」の利益にしかならず、「我々」がコストを追うのは不公平だ」と考えられるようになる。こうして、民族多様性は市民の相互の信頼感と連帯意識を損なうことから、現代のリベラルな社会は、民族多様性の受容と所得再分配の支持との二律背反に陥る。これがグッドハートの言う「進歩派のジレンマ」です。

実際に、EUの中でも率先して移民を大量に受け入れてきたことで有名なドイツでは、移民の社会統合が進まない状況に陥り、2010年に当時のメルケル首相は「多文化主義は完全に失敗した」と発言しました。イギリスにおいても、1970年代以降、移民の独自の宗教・文化の維持への配慮や、移民への積極的な就労支援や教育支援の実施など、多文化主義政策が推進されていたものの、ついに2011年、キャメロン首相は「多文化主義の教義のもとで(中略)我々は所属したいと感じられる社会像の提供に失敗した」と宣言しています。

「底辺への競争」がリベラルへの反発を生む

さらに、評論家の中野剛志氏は、リベラル派が、ポリティカル・コレクトネスの名の下で人の移動を自由にしたことが、いわゆる「底辺への競争」(先進国の労働者が、新興国の低賃金労働者との競争にさらされ、失業や賃金の下方圧力を受けること)を発生させ、それがむしろ排外主義を助長してしまう原因になっていると指摘しています。少々長いですが、以下引用します。

 アメリカでは、グローバリゼーションによってヒト・モノ・カネを多様化した結果、元からいた労働者が虐げられ、格差が拡大し、労働者が弱者に転落したわけです。でも誰も手を差し伸べてくれないから、彼らは右であれ左であれ、過激な方向に行くということになり、今目の前に起きてる現象は、トランプあるいはオルト・ライトの方に走っていると。リベラルな人達はこれにどう対処するのでしょうか。(中略)
 リベラルな人達はポリティカル・コレクトネスで多様性や寛容性ということでグローバリゼーションに与するのか、あるいは弱者の問題、所得の再分配に目を向けるのか。この二つの価値が矛盾するときには、あなた方はどっちを取るんですか、ということです。
 言い草としては、「多様でありかつ再分配すればいいじゃないか」とこうなるんでしょうけど、所得の再分配をするためには、強大な国家権力が必要であるわけです。しかも金持ちの私的財産を奪って他人に渡すということが所得の再分配ですから、金持ちの1%が自分達の財産を奪われて、貧しい人達の財産として持っていかれるということを、同じ国民だから仕方がないと許せなければならない。そうすると、同じ国民だから仕方がないと許せる範囲というのがやっぱりネイションということになるので、許せる範囲と許せない範囲というのがやっぱりあるわけですね。同じ国民だから許せるが、全然違う知らない外国にまではそこまで寛容にはなれません、ということになると、所得再分配をやるときには、無限の多様性に対する寛容についてはブレーキがかかるはずなんです。リベラルの人達というのは多分そこを整理できてない。

YouTube「『グローバリズム その先の悲劇に備えよ』刊行記念 中野剛志さん×柴山桂太さんトークイベント その2」より

中野氏も、グッドハートと同様に、リベラル派が主張する多文化主義政策と所得再分配政策はトレードオフの関係にあり、両方を実現するなどという虫の良い話はないんだ、ということを指摘しているということです。

「進歩派のジレンマ」についての実証的研究

では、上記で指摘されているような多様性と所得の再分配のトレードオフという現象は、現実の政治において実際に確認できるのでしょうか。

この点について、一橋大学社会学研究科の田中拓道教授は、著書の『リベラルとは何か』において、研究者の間では、民族的な多様性と国家の再分配への支持低下の間には、一定の相関があると考えられるようになっていると指摘しています。

アルベルト・アレシナとエドワード・グレーザーの研究では、先進国と途上国、先進国同士、およびアメリカ国内の地域を比較し、いずれの場合でも、民族的な多様性が大きければ大きいほど、分配政策への支持が小さくなることを明らかにしています。アメリカの福祉国家の規模がヨーロッパよりはるかに小さい理由は、アメリカの方が民族的な多様性が大きいからだと言うのです。

また、モーリン・エーガーの研究は、手厚い福祉国家のスウェーデンにおいてすら、「進歩派のジレンマ」の現象が観察されることを指摘します。スウェーデンでは、外国生まれの市民の割合が、1970年の6.7%から2006年の12.9%へと増加しました。1986年から2002年までの世論の動きを調べると、移民の割合の増加と社会福祉支出への支持低下の間に強い相関関係があり、とりわけ中所得層以上で支持の低下が著しいことがわかりました。スウェーデンで手厚い福祉への支持が失われてきた最大の要因は、移民の増加にあったというのです。

ちなみに、スウェーデンでは、以下のグラフが示す通り、移民の増加に対応する形で「極右」政党が急速に台頭するという現象が見られますが、このことも、上記見解を裏付ける事実と言えるでしょう。

日本経済新聞「移民に揺れる「幸福先進国」 北欧、分断回避への道模索 成長の未来図・第3部 北欧の現場から④」より

上記のような議論を踏まえた上で、田中教授は、社会福祉の制度設計において、選別主義ではなく普遍主義的なアプローチを採れば、多文化主義と高福祉政治は両立できるのではないか、という提言をしています。しかし、普遍主義的な福祉政策を採用してきた代表的な国であるスウェーデンにおいても「進歩派のジレンマ」が見られる以上、そのようなリベラル派の擁護は難しいのではないかと個人的には思います。

移民と国民、双方のための「同化」政策

上記のような「進歩派のジレンマ」が含意するのは、つまるところ所得の再分配と移民等の受け入れを両立したいのなら、多文化主義を採用することはできない、ということではないでしょうか。

ここで参考になるのが、世界的に有名な文化人類学者エマニュエル・トッドによる、日本は移民を受け入れるべきだが、その際には「多文化主義」ではなく「同化主義」を採用すべきである、という主張です。

トッドは、自身の著書『老人支配国家 日本の危機』において、人口減少が進む日本は外国人の受け入れ拡大をすることが望ましいとした上で、移民政策でみられる典型的な過ちとして、「移民受け入れにあたって多文化主義を採用すること」を挙げ、以下のように説明します。

イギリスやドイツがかつて採用してきた「多文化主義」とは、聞こえこそ良いものの、それは要するに「移民隔離」政策に他ならない。そのような政策は持続可能ではなく、実際にうまくいかなかった。一方で、フランスが採用してきた「同化主義」は、聞こえこそ良くないものの、その根本的な発想は、移民を本質的に「異なる人間」とはみなさないという点にある。そのような発想に基づいて、長期的に移民を社会に包摂することにより、社会の構成員の同質性を保つことができるし、それこそが社会の存続に必要なのである。

ただし、「同化主義」を採用するときには、それが教条的で高圧的で不寛容にならないように気をつけなければならない。移民の第一世代が文化や言語に馴染めずともそれを認め、第二、第三世代が帰化を望めばそれを歓迎するというような、寛容な「同化」政策こそ求められる。

以上がトッドの「同化」政策論です。確かに、「移民のありのままの言語、文化を受け入れる」という多文化主義は、裏を返せば、「移民は受け入れるものの、彼らを同一の社会・コミュニティに包摂することを目指さない」ということに他ならず、移民と国民の双方に対して無責任な態度であるとすら言えるでしょう。それだけでなく、そのような多文化主義政策は、既に見たように、民族の多様性が社会の連帯意識を掘り崩してしまうため、そもそも維持不可能なわけです。

むしろ、「移民を数世代にわたって自国の言語や文化に馴染ませていく。そのために教育を施したり、社会に包摂していく努力をする」ということを仮に「同化」政策と呼ぶならば、そのような「同化」政策こそが、責任ある移民政策であり、かつ唯一持続可能な移民政策ということにもなるでしょう。

終わりに

僕自身としては、移民や外国人労働者の受け入れは、社会への影響という視点から見ても、経済への影響という視点から見ても、慎重にならざるを得ないだろうという立場です。一方で、人口減少社会において、移民などを受け入れる必要があるならば、それはトッドが主張するような、「同化」政策をとらなければならないだろうと思います。

いずれにしても、リベラル派の目指す「多文化共生と高福祉政治の両立」などという夢物語は実現できないだろうという点については、確信に近いものがあります。日本の移民政策をめぐる議論においては、上記に紹介したような知見の蓄積を前提とした建設的な議論が行われることを切に願っています。この記事がその一助になれば幸いです。

記事は以上になります。
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