髙田祥聖の、かたむ句!③【号外記事】

句敵の句が口に出て春一番



「こいつは私の孫。君の幼なじみであり、ライバルである。……えーと? 名前はなんて言ったかな?
 そうだそうだ!思い出したぞ!グリーンという名前だ」

日本を代表するゲームソフトと言っても過言ではないゲーム「ポケットモンスター」。これは、その初代博士であるオーキド博士の台詞である。発売当時、まだ十代であったわたしはこの台詞に怒りとも悲しみとも言えない複雑な感情を覚えた。
「レッド(初代ポケモンの主人公の名前)とグリーンは仲良しかもしれないのに、どうして博士はライバルなんて言うんだろう……」
孫の名前を忘れるなよ……、とツッこんだほうが良いような気もするが(人の名前を覚えられないわたしが言うな)、十代のわたしはレッドとグリーンの関係性を第三者が決めつけるような発言に大人の身勝手さを感じたのである。
対して、後続のソフトであるポケットモンスターブラック/ホワイトでは、ライバルの立ち位置であるキャラクター、チェレンとベルが「旅立ちの最初の一歩はみんなで!」と主人公が追いつくのを待っていてくれる描写がある。よかった、今度こそみんな仲良しで旅ができるんだ。主人公であるわたしは、この二人と再会するたびにポケモンバトルをすることになるのだが、違う道に分かれても仲良しでいられるよねまた仲良しで会えるよね、とあの旅立ちの第一歩を心の拠り所にしていた。

本ブログはポケモンプレイブログではない。

句敵の句が口に出て春一番

嶋田麻紀

掲句は、句友から「この句いいよねえ」と教えてもらった。そのときからずっとわたしの心に棲みついてしまい、しばしば春の嵐を起こしている。
おだやかな春の日、口をついて出たのは句敵の句であった。句敵と意識していたから覚えていたのか、それとも忘れがたい名句だったのか。春の訪れを告げる春一番が胸中を吹き抜ける。この衝動をどう句にすればいい?

先日、春一番のような鮮烈さで現れたものがあった。
俳句ユニットRUBYである。
ギル、いかちゃん、常幸龍BCADの三名からなるこのユニットは、エイプリルフールから二日後の四月三日にその結成を宣言し、六日に第一回ネットプリントを発行した。今回のブログでは、彼らの句に触れながら、句敵について書きたいと思う。

ルビ振ればそこに行間春の風

ギル

ルビを振れば、ルビとルビを振られた言葉の間に行間が生まれ、その行間を春風が吹いていく。
作中主体はどうしてルビを振るのだろうか。なににルビを振るのだろうか。難しい漢字を読めるようにという配慮か。それとも強敵と書いて「とも」と読ませたいのか。ルビによって、言葉は音や新たな意味を与えられる。それは新しい生命を吹き込まれることに等しい。春という季節に相応しい一句である。
(俳句ユニット「ルビイ」だからルビの句を一句目に置いたのだろうか……)

とろとろと思考の罅を春の海

常幸龍BCAD

思考の罅とはなんなのだろう。そう考えた時点で、もうすでに思考に罅が入ったような気持ちになる。
罅が入ることはなにも悪いことばかりではない。罅が入らなければ、雛鳥は孵ることができない。罅割れた思考から、新しい何かが生まれるのかもしれない。春の海の匂い。心地よい波の音。春の風にまどろみながら、思考が罅割れて、新しい考えが孵るのを待とう。

鞦韆や軋めるものに銀河系

いかちゃん

無数の星が集まったものを銀河といい、宇宙にたくさんある銀河と区別するために、わたしたちがいる銀河を銀河系と呼ぶ。
鞦韆は元々アジアに見られる儀礼の道具であり、紀元前七世紀、中国北方の異民族から中国に輸入されたものだという。その鞦韆を軋ませながら漕ぐ。鞦韆が空に近づくほど軋む音も大きくなる。
軋めるもののひとつとして銀河系を挙げているが、もしかしたら銀河系を軋ませているのは他ならぬ作中主体本人であるかもしれない。

軋ませているのは銀河系だけであろうか。
あるいは、わたしも。

ギルギルとビシさんは、今年のあしらの俳句甲子園のチームメイト。焼肉を食べながら、兼題十句を詠み、お互いの句を批評しあった。
いかちゃんは、わたしと同じく俳句結社「楽園」に所属。先日、二人で鎌倉に行ったにも関わらず寺社仏閣には行かずちょっと良いチョコレートを食べておしゃべりをしていた。あ、鶴岡八幡宮で鳩と鴨を眺めたか。
わたしは三人と仲良しであるが、ただ仲良しなだけの句友なのだろうか。

句敵。敵という言葉が強くて少しばかりひるんでしまうが、現代的に言うならば「ライバル」であろうか。句敵は最初から句敵だったのか。なにをもって句敵だと認識するに至ったのか。
句友は句敵でもあり、句敵は句友でもある。それは、一枚のコインの裏表のように。

こうした関係性、こうした感情の持ち主はわたしだけではない。わたしだけではないと思いたいし、実際にそのようであるらしい。
前回のブログで引用した河東碧梧桐の『子規を語る』。そのなかで碧梧桐は虚子を次のように語っている。

虚子は小学時代からの秀才で、いつでも一、二番の首席を争っていた。私は弥次と腕白で通ったまアまアガラガラ書生だった。虚子には「聖人」という綽名があった。無口で謹厳で、串戯一つ言わなかったからであろう。私の綽名は本名の「ヘイ」で通っていた。聖人とヘイとは放課後よく往来したものであったが、学校の書物や宿題などをお互いに勉強したことは一度もなかった。回覧雑誌はたしか「四州会雑誌」と言ったように記憶するが、その誌面は、聖人よりもヘイのほうが牛耳っていた形だった。自然二人の間の話は、詩歌小説などの文学談を主として、いつとなく未来の大文学者を夢見る点で共鳴していた。
(中略)
そんな関係から、子規と私のつながりは、当然虚子にも及ぼさなければならない運命にあった。虚子も私という相棒を失った淋しさからでもあったのか、この私の東上中に、子規に紹介し、その添削を乞うてくれ、と歌稿句稿のようなものを送って来た。私はどういう考えであったのか、口で紹介する位置に居りながら、筆で推奨する手段をとった。子規がそれを読了したかどうかは知らない。またその草稿を添削してくれたかどうかも判然と覚えていない。何でも読み覚えの文章規範か何かをもじった、漢文直訳体の紹介文であったから、子規も仰山らしく余計な事と感じたかもしれない、今考えても背に汗の流れることだ。しかし、後に自分の後継者として選んだ、唯一頼みにする者と推奨したほど、子規の打込んだ虚子との接近する開幕のシーンとしては、それ位の添景は、あるいは何らかの刷き余りの色彩ともなるであろう。

河東碧梧桐『子規を語る』

長々と引用としてしまったが、削ることはどうしてもできなかった。欠かすことができない感情、関係性がここに書かれていると思ったからである。
碧梧桐がこうした感情を持っていたことに、ほっとするわたしがいる。このブログを読んでくださっているあなたはどうだろうか。

詩作に限らず、芸術は絶対評価でありながら、相対評価の面も確実に存在する。勝ち負けなどないはずなのに、勝ち負けがある。
「勝ちたい」「負けたくない」
この感情はどこから生まれてくるんだろう。どうして生まれてくるんだろう。

そんなことを思いつつ。

RUBY結成の報を受けて、わたしたちリブラメンバーは沸き立った。間も無く日も変わるというのに、句会を開こうという話となり、「投句数は五億句、一秒あたり五百句詠めば可能」「自由律や無季句を詠むチャンス!」なんて言ったりして。
俳句同人リブラ、ほんとうに愉快な仲間たちである。

句友の新しい挑戦はほんとうに刺激になる。
がんばろう。わたしに、わたしたちにだってなにか新しいことができるんじゃないか。そんな気持ちになる。

リブラメンバー一同、RUBYという句友もとい句敵の誕生を心より祝福し、本ブログの結びとする。

【私信と宣伝】


ギルギル、いかちゃん、ビシさん。RUBY結成おめでとうございます!

本ブログをお読みくださり、ありがとうございます!俳句ユニットRUBYが気になってきたぞ、という皆さま。俳句ユニットRUBYのXのアカウントはこちらです。ネットプリントはコンビニで印刷の他、Googleドライブにてダウンロードもできちゃいます!ぜひお読みくださいませ!それぞれにダウンロード期間が異なりますので、どうぞお早めに!

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
それから。通常なら金曜配信であるリブラブログなのに、わたしの「RUBYについて、句敵について書きたい!」という気持ちを後押ししてくれた、休日にも関わらず原稿をチェックしてくれたリブラのメンバーのみんなに心からの感謝を。号外というかたちで記事を書けたのはみんなのおかげです。

みんなありがとう、だいすきです。

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