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二度寝的なシュールレアリスムとシェアオフィスとしての私

ーーしばしばシーシャを吸うことがある。

ボコボコと泡立つ音がして綺麗な白い煙が上がってくる。
30分おきくらいに店員さんが来て、炭を変えてくれる。

シーシャのお店はだいたい薄暗くて、深く座れるソファが置いてある。

本を読んだり、何もしなかったりするのにシーシャに行くのがわりと好きだ。

良い香りの煙をゆっくり吸っていると、少しずつ頭がぼんやりする感覚がある。吸い過ぎるとクラっとする。

このクラっとくる感じは、要は酸欠ということらしい。
軽い酸欠になりつつ、ソファにどこまでも深く座り込んでいくような心持になってくる。

とりとめのない考えが湧いては消える。

この前読んだ雑学本に「二度寝は何であんなに気持ち良いのか?」が書いてあった。

いわく、「本格的に寝ているとき、身体が休まっていることを自覚できない。一方で、二度寝しているときはわずかに自意識・感覚が目覚めている。ゆえに、布団に包まれている心地よさ・リラックスしている感覚・休まっていることを体感できるからだ」というようなことだった。

日々、あれをしようこれをしようを考えている「私」がいる。
完全に体が、「私」をまるごと巻き込んで休まっているとき、「私」は休まっていることに気が付けない。
でも、二度寝であれば、日常の些事から解放されて、心行くまで休まっている「私」に「私」が気づける。ゆえに二度寝は気持ちいいという話だ。

そして半睡半醒の「私」は、二度寝の時間の中で、日常考えないとりとめのない考えやイメージ、浅い夢を見ていることに気が付く。
(※自分が家族に変な寝言で話しかけるのも、二度寝のときが多い気がする)
シーシャで軽い酸欠になるのも、心地よさの感覚としては近いような気がする。


「私」や思考の制約を離れて、自由で鮮烈な表現を求めた運動にシュールレアリスムと呼ばれるものがある。
「理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と説明されるような、シュールレアリスムの表現に対してなんとなく感じていたのは、苛烈・ストイックといったイメージだった。

どうしても沸いてしまう理性・思考・先入観をゼロにするために、極度の空腹や不眠に自分を追い込んで、頭を朦朧とさせながら創作し、自我の放棄の末に以下のような文章をたたき出す。

彼にエーテルの永遠の溝をたどらせてください、
でもそれを飛行機のソフトネームとして保存しましょう、
その魔法のニックネームのためにそのXNUMXの巧みな文字
彼らは動く空を開く力を持っていました。

「私」をさんざんに虐待した末に、私じゃないものの不可解な言葉を取り出すあり方に「世の中にはストイックな人たちがいるものだ」とぼんやり感じ、また、「私」でないものに耳を傾けるとはそれだけ苛烈なことなんだなと思っていた。

しかし、である。

シーシャで酸欠になって、少しずつ「私」を眠らせていき、ぼんやりとした感覚を味わうのも、起きていることの方向性としては近いんじゃないだろうか?
あるいは幸福な二度寝の中で、浅い夢に身をゆだねるのも。そういえば夏目漱石も武田百合子も、自分の見た夢を記録するやり方で不思議な文章を書いていた。

ゆっくり眠る「私」の傍らで、湧いてくる「普段の私ではないイメージ」に耳を傾けることに、上に書いたような「無私の苛烈」ではなく「無私の心地よさ」という可能性もある気がする。

でも、「私」が半分眠ったときにその気配を表す、「普段の私ではないイメージ」とは一旦何者なんだろうか?


「人間にとっての自由とは何か?」という問いを考えつづけているフランクファートという哲学者がいる。

彼が「自由」を定義した一つのやり方として
「その行為が二階の意欲に一致して為されたのであれば、その行為は(不可抗力や錯誤ではなく)自由意志によってなされたと言える」というものがある。何のこっちゃという話だ。

生きている限り「眠りたい」「ランニングに出かけたい」「仕事を終わらせちゃいたい」「さっさと帰りたい」「あいつとは口を聞きたくない」「なるべく人と仲良くしたい」というような欲求を感じることがある。
それらの欲求は互いに矛盾することもある。例えばコンビニのレジでファミチキを見た瞬間に「食べたい」「ダイエットを頑張りたい」と同時に思うように。

そうした、生きている限り感じ続ける無数の瞬間的な欲求が「一階の意欲」だ。

一方で、「私は数々湧いてくる欲求の中でも、こうした欲求に優先的に従う自分でいたい」と、「自分が従いたい欲求」を決めているのが「二階の意欲」である。
ファミチキの例で言えば「ジャンクな食欲よりもダイエットの方を優先する自分でいたい」あるいは「些細なことや他人の目にを気にしたりしないで、気兼ねなく食べたいもの楽しく食べたい」が二階の意欲になるだろうか。

本当はAの欲求に従いたいのに、Bの欲求に従ってしまう。
そんなとき人は自由ではない とフランファートは説く。
そうした形で「私」が自由でないとき、それでは、Bの欲求にこの体を従わせた存在は何なのだろうか?

「単なる本能でしょう」と考えるのはシンプルかもしれない。
理性的な判断に従ってAを選びたい「私」が、動物的な本能に従ってBを選んでしまっただけだと。

ただ、シュールレアリスムの実験で、理性を超えて言葉を作る何者かが体の中にいるかもしれないことを我々は知っている。

この体の中に、理性の及ばない部分/二度寝や酸欠のときにはじめて存在を感じられるような「何か」があるとする。そして再掲だが、その「何か」は、以下のような文章を作れるだけの知性を持っているかもしれない。

彼にエーテルの永遠の溝をたどらせてください、
でもそれを飛行機のソフトネームとして保存しましょう、
その魔法のニックネームのためにそのXNUMXの巧みな文字
彼らは動く空を開く力を持っていました。


そうであるとき、自分の体と「私」について妙なイメージが湧く。

この体に何をさせたいか?どう振る舞いたいか?について、「私」も、「この体に内在しているけど、私が知らない何者か」も、それぞれの二階の意欲を持っているのではないか?

体が日々日々出会う一階の意欲に対して、「どの二階の意欲が勝つか?」はその時々の勝負であり、その勝敗の結果として、この体の中の誰が一番自由であったのかが決まる。

つまり、「私」にとっての自由に従い、湧き上がる一階の欲求の一部を拒絶することは、体のどこか一部にとっての不自由なのかもしれず、反対に「私」にとっての不自由が、体のどこかにとっての自由なのかもしれない。

二階の意志をもつ「私ではない誰か」とは、まったく別の不可解な知性なのかもしれないし、メンタルのムードを決めている腸内細菌の集まりであるかもしれないし、「私」にとっての無意識化で日々日々忙しく働いている脳の一部分かもしれない。もちろん動物的な本能もそこに含まれるだろう。

その意味で、体は自由のトレードオフが日々日々繰り広げられるアリーナのようなものかもしれず、「私」が、本当は従いたいAという欲求に従えないとき、それは「私」の意志の弱さによるのではなく、むしろ「誰か」の意志の強さによる出来事なのかもしれない。

※そういえば、「私」ではない何かが振る舞いを決めている例として、ある種のトキソプラズマへの感染が人をリスク選好的にさせ、その後の人生での単独起業の確率を高めるという研究もある


ある意味で、身体は「私」が占有している一人乗りの乗り物ではなくて、複数の二階の意欲が入り混じっているシェアオフィスのようなものかもしれない。
今この瞬間に、同じ体で、同じ五感を共有しながら、「私」とは別のことを考えている同乗者がいないと本当に言えるだろうか?

「私」が「本当はダイエットをしたいのに食べ過ぎてしまった」と感じているのとまったく同じタイミングで「本当はもっと食を楽しみたいのに、思うように楽しめていない。何か体調不良なのかな?」という思考をオーバーラップさせている誰かが皮下にいないだろうか?

聞こえ方は不気味な考え方かもしれないが、同じオフィスを共有しているかもしれない仲間と出会うのは、ある意味で「私」を広げてくれる楽しい試みなんじゃないだろうか。
それこそ、二度寝の昼に、普段の「私」を離れてあいまいなイメージに不意に出会う驚きと楽しさのように。

こうありたいという理想的・理性的な「私」以外に、この体の振る舞いを決める者として何がいる?ある意味、豊かな生態系として、この中には何がある?を見つめようとして見るのは、だいぶ感覚は違えど、大きな意味で「自分探し」の一環なんじゃなかろうか。


煙が昇っていく。
内側で輪郭が溶けていく。

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