見出し画像

舌を慕って

記念日に、少し良いレストランに妻と行った。

一皿が出されるごとに、地図を使いながら発祥の地を解説してくれて、素材や調理法の美味しいポイントもしっかり伝えてくれる。
コース料理ならではだが、大きな皿に盛られた分量はちょこんとしていてつつましい。
事前の解説で期待が膨らんでいる分、あまりにも頼りない量に思える。
「何皿も出てくるのだからこのくらいの量が丁度いい」と分かってはいるのだが、一口食べた美味しさにどうしても思ってしまう。


  もっと食べていたい。
 この一口を食べ終わりたくないーーーー。

つまり、美味しいものを食べるときには、舌の快楽と喉の快楽の戦いがある。

「舌の快楽」と「喉の快楽」という安易な字面からも想像がつくように、その区分はシンプルだ。

・この味と香りをいつまでも楽しんでいたいというのが舌の快楽。
・どんどん飲み込んで胃に送りたいというのが喉の快楽。

喉の快楽の方が本能的なのか、意識しないと抗うのが難しい。
食べ終わりたくないと思っているはずのものが、それでも勝手にどんどん胃袋に送られて行ってしまった経験は誰しもあると思う。

喉の快楽が本能的なものだから、普段はそっちをメインにして生活してしまっている気さえする。
味や香りを感じるのに十分な量以上の、ある意味、味わうには過剰な量を口に送ってしまったり、飲み込んだものがまだ胃に落ちず、喉を滑り落ちているような最中にもう次の一口へ箸を伸ばしてしまったり。

食事の際に必ず舌と喉の戦いがあること、放っておいたら喉が勝ってしまうことを知ったうえで、弱い舌に特に目をかけ、ゆっくりと噛んでやればもっと食事の時間が豊かになるだろうか。

それは明日から、いや、次に何かを食べるタイミングから早速活かせる、自分を大切にする系の生活実践になりえるだろうか。

ーーでも、「なるべくすぐ飲み込まないように」を意識しながら注意深く食べる料理は本当においしいのだろうか。

「100回噛みなさい」と言われ、数えながら食べるお米は本当に美味しい?

失うことへの恐怖が、手元の幸福を曇らせるという悲しさがここにはある。


アメリカのバンド、ラヴィン・スプーンフルのヒットソングに「サマー・イン・ザ・シティ」というものがある。

酷暑の季節に聴きたくなる曲調で、夏の昼間は暑くて最悪だけど、涼しくなった夜は最高。涼しい夜に楽しく踊ろうということを無邪気に歌い上げた曲で、ナイトライフを楽しむパリピな曲と言えなくもない。
"at night it’s a different world"という歌詞を繰り返し歌いながら、昼間とは違う夜を歌い上げる。
そして別世界たる夜の遊びをうたった後、昼間が夜のようじゃないことを残念がってサビが終わっていく。
間奏に入る爽やかな高音のキーボードは、カリスマ美容師ヴィダル・サスーンのドキュメンタリー映画でもテーマミュージックのように使われた。
そういう、都会的で無邪気な雰囲気のヒットソングだ。
この歌詞、夜の街を楽しむサビで、ふと「夜に比べて昼間はがっかりだ」というフレーズが挟まる部分。そこでとある本の一説を思い出す。

色々な些事に忙殺され、生を楽しむことができない暮らしについて、古代ローマの哲学者セネカが書いた「人生の短さについて」という本。
その中で、自身の生を見失ってしまった「忙しい」古代ローマの人々の悲しさを書いた一説だ。

曰く、

彼らが高い代償を支払って手に入れた夜を、とても短く感じないことがありえようか。
彼らは、夜を慕って昼を失い、朝を恐れて夜を失うのだから。
夜を慕って昼を失い、朝を恐れて夜を失う。

セネカ,「人生の短さについて」

なかなかのパワーフレーズだと思う。
楽しい夜が来ることに気を取られて昼は気もそぞろで過ごし、いざ夜が来たら、楽しむ中で、心はどこか夜が終わって朝が来てしまうことを恐れてしまい、夜を夜として十分に楽しめない。

自分は例えば、連休中に楽しみな予定があって、その日が早く来ないかと思って休日初日を適当に過ごしてしまっているとき、夜を慕って昼を失っている!とこの言葉を思い出す。
日曜の夜に酒を飲んでいるとしょっちゅう話題にあがる(そして自分もよく話題に出す)「明日仕事かーー」というフレーズも、朝を恐れて夜を失う心だ。

サマー・イン・ザ・シティの若者も、夜の街を楽しく踊りあかす中、「昼間って最悪だよね」とこぼすその瞬間、彼の夜を失ってしまっているのだろう。その恐れは夜が深まり、朝が近づくにつれてじわじわと大きくなっていく。

悲しいことに、人は楽しみを感じることとセットで、それが失われていくことを恐れずにはいられない。そしてその恐れは楽しみを蝕んでいく。




舌と喉の話に戻ろう。
美食をすぐに飲み込んでしまおうとする喉に対抗するため、舌の快楽を普段から強く意識すると食事が楽しいかもしれない、と書いた。

一方で、食べているものは飲み込まないわけにはいかない。
そして、喉に送らないように、送らないように美食を味わい続けるのは、舌の快楽というよりもただの恐れーー朝が来てしまうことへの恐れだ。

だからここに、なんだかお寺の説法のようなセンテンスが成り立つ。

つまり、今手元にあるものを前のめりに楽しみながら、同時に諦めることだ。
楽しいことも幸せなことも、通り過ぎて失われていく。
自分の目の前を通っている瞬間だけは楽しむが、前提消えていくものとして諦める。
それを無理に押しとどめようとはしない。

「諦めたものしか本当に手に入れることは出来ない」という言い方にしたら、それこそお寺の門前に貼られてそうな標語である。

で、結局、美味しいものを食べるときはどうしたらいいのか?
舌が味わい、喉が胃に送るのを自然な成り行きとして任せることになるか。
それは普通にものを食べるということと大して変わらないんじゃないだろうか。
無意識に食べていた世界から、舌と喉の戦いという世界を経て、諦めて喉に託そうという考えによって一周回って戻ってきた。
今後も自然にご飯を食べていきたいと思う。

が、このnoteを書いてしまった後、しばらく自然に舌と喉を使える気がどうもしないのは何故だろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?