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grayish rainbowな多様性を語りだすということ(EUGENE STUDIO展 感想)

清澄白河でやっていた寒川裕人(EUGENE STUDIO)の展示に会期ギリギリで滑り込んできた。会場の東京都現代美術館は、駅から徒歩15分という攻めた立地にあるけれど、その分広くてどでかい。徒歩15分の"参道"も、古本屋や昔懐かしなお土産屋が立ち並ぶ雰囲気の良い通りで、歩くしんどさよりも散歩の楽しみを感じさせてくれる。
(途中にあるベトナム料理ダイナーがめちゃくちゃ美味しそうだった)

展示物はどれも目に格好良く、色々な意味合いを感じさせてくれるもので、中でも「群像のポートレート」という作品が印象に残った。

(▲群像のポートレート)

「群像のポートレート」は、グレーの色だけで書いた大きな点描画だ。一つ一つのグレーは、少しだけ赤みがかっていたり、青みがかっていたりと、ほんのわずかに色がついている。離れて大きな点描画を見ると、わずかな差が目に付きだして、淡い虹色が現れるという作品だ。一つ一つの点が一人の人間を表現していて、その集合だから「群像のポートレート」とのこと。

虹色というコンセプトで連想したのは「多様性の象徴」という意味合いだ。
レインボープライドのビビッドな虹色。「多様性を認め合う」「お互いの個性を賞賛しあう」というポジティブなシーンが想起される。
「多様性」「Diversity & Inclusion」というテーマについて、数回企業研修を受けた限り/何度か雑誌で見た限りの表層的な理解では、正直「ちょっと、ポジティブなプレッシャーにも感じるな」という気持ちを持ってしまっていた。
つまり、(一旦、LGBT的な文脈は抜きにして)


・平日は真面目なエンジニアだけど週末はクラブのDJ
・実はシリアスなアウトドア愛好家。リモートワークに疲れたらソロキャンプで心身を癒す
・子育て経験者ならではの、リアルな実体験に基づいた考え方ができる

というような、その人の「実は」の側面/隠れた魅力を発見しあって、色々な場で賞賛しあうのが「多様性の認め合い」というようなイメージを持ってしまっていたのだ。
(多様性がある方がチームの創造性/生産性が上がる、というビジネス文脈に触れすぎていたのかもしれない)
仮にそうした「隠れた魅力の発見/プレゼンテーション」が多様性の認め合いだとするなら、自分を棚卸ししてみたとき、そうした「隠れた魅力」が果たしてどれだけ見つかるだろうか?というプレッシャーにも繋がりかねない。

「個性を開花させ、クリエイティブであろう」という言説には、そうした小さな違和感、というかプレッシャーを感じてしまう。
例えばアジアの広告祭で賞を取ったレノボジャパンの以下のショートフィルム。

「自分の好きなことが分からない、何をすればいいか分からない」というモヤモヤを抱える少年が、あるとき自分の「好き」を開花させて、極彩色のペインティングを描き上げていくというストーリーだ。
綺麗な映像で、感動的なストーリーで、好きな動画なのだけれども、我ながら面倒くさいことに、見終わった後に少しだけひっかかりが残った。
つまり、「『何が好きか分からない』という共感を最初に呼んでおいて、結局この少年はさっさと、自分の存在をかけての『好き』を見つけて、その領域を走りぬいているじゃないか」という印象だ。本当に万人が万人、この少年にとっての”極彩色のペインティング”に出会っているのだろうか?

隠れた魅力・私ならではの創造性が共有されあう多様性の場は、ビビッドな個性が際立つ、それこそ鮮やかな七色の点描画になりそうだ。個々の点はカッキリした輪郭をもってキャンバスの上で座を占めて、鑑賞者に向かって”私”を表現するだろう。

翻って、柔らかな七色の「群像のポートレート」だ。

ここでは、もっともっと柔らかく、一つ一つの点は「同じ部分」を分かち合うように寄り添っている。その上で、その全体が、淡い虹色になっていることに鑑賞者が驚き、一つ一つの点のわずかな差がどこにあるんだろう、と、ギリギリまで点描画に顔を寄せさせている。
(スタッフの方が「鑑賞は線の内側でお願いします」と何度かアナウンスしていたのが印象的だった)
イケている長所を認めあうことが多様性の認め合いだとなんとなく思っていた自分にとって、「カテゴリとして同じ部分をまず認めて、ほんの僅かの違いをじっくり探っていく」「個々が際立っていなくても、引いてみれば緩やかな虹色になっている」という体験は、人肌のほうじ茶のようにほっとするものとして感じられた。

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「パレイドリア」という心理現象がある。
岩が人間の顔に見えたり、トーストの焦げ目がキリストに見えたり、偶発的なものに対して、主観的に意味づけをしてしまう現象だ。
ものの見え方に限らず、「昨日、虫をいじめたから今日転んでひざを擦りむいた」「あの日無くした1000円札が、今日1万円になって帰ってきた」のように、特に因果関係のない事象に対して、とっさにストーリーを作ってしまうことも、広くはパレイドリアに属するらしい。
とかく、人間は身の回りのことを意味づけして、ストーリーにして、語りあうのが好きだ。
そのこと自体は、人間性の活き活きした側面の気がしていて、パレイドリアが心理的錯覚や心理的誤謬と呼ばれると少し悲しい気にもなる。むしろ、人間らしい好奇心と思いたい。
EUGENE STUDIOの展示でも、小さなガラスの砕片を散りばめた展示に対して、「人の顔に見える」「動物に見える」とささやきあいながら鑑賞していた方がいた。
古くは星をつないで、そこに(かなり無理やりに)クマやうさぎを見出したのも、あっぱれパレイドリアと言うべきだろう。
では、パレイドリアの目で、「群像のポートレート」に並ぶ点たちを見れば、何が見えるだろうか?ポートレートの部分部分に、星座のような意味合いを語り出せるだろうか?

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多様性を受け入れる、多様性を楽しむということは「所与の長所・既にある魅力を互いに引き出しあう」という発見のプロセスではないのかもしれない。
長所や魅力を前提とせず「今ここに、それぞれ違う人格である『私たち』が集まっていることの意味は何だろう?」ということを考える、もっと手仕事感/その時点では存在していないものを手作りするプロセスなのかもしれない。
更にもう一歩踏み込んで、「今ここに、それぞれ違う人格である『私たち』が集まっていることの意味なんて別にないのかもしれない。ただの偶然なのかもしれない。それでもなお、この『私たち』がいることに意味を与えるとしたら、どういう語り口になるだろう?」ということを、前向きに紡いでいくことに思える。

「自己肯定感とは、『私にはこういう長所がある』という拠り所がある状態ではなくて『別にポンコツな私であっても、誰に気兼ねなく存在していていい』と思える状態のこと」という、友人の言葉を思い出しつつ、grayish rainbowな多様性のあり方が心に残った展示だった。

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