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ひとにレキシコンあり

朱鷺色(ときいろ)という色があることは、中学の美術の先生から教えてもらった。
水彩画の講義中に、その聞きなれない色名が出てきたのだ。

”オレンジの中でも、もっとピンクに寄った淡い色のものを朱鷺色と呼ぶことがある。ちょうど〇〇が来ているシャツのここの色だ。「トキ」とは鳥の朱鷺のことで、その羽の色だな。”

そう言いながら先生は私の席にやってきて、私が着ていたシャツの袖の部分を指さして見せた。トキという鳥の羽の色と言われても、当時は実物のトキの姿がそのものピンとこない。
ともかく、クラスの目を集めつつも、何か発言を求められているでもなく、手持無沙汰で微妙に恥ずかしいような思いがしたことを覚えている。

そして今でも、ピンクがかった淡いオレンジ色を見ると「朱鷺色」という言葉を思い出すし、あわせてその日の美術の授業も思い出す。

「朱鷺色」で思い出すこうした記憶は間違いなく自分だけのものだ。
同じく、妙にプライベートな記憶と紐づいている言葉は誰しも何かしら持っていると思う。
あるいは、そうした特別印象的なエピソードや印象的な語に留まらず、普段使っているような日常語でも、その語を口に出したときにそれぞれの人々が想起している印象・記憶は全く別々かもしれない。
人が「雨」という言葉で想起する印象、「田舎」や「正装」という言葉に紐づく記憶はそれぞれ違っているんじゃないだろうか。

俳句の本を読んでいて「人の驚きには二種類ある。『サプライズ』と『パーセプション』だ」という記述があった。

曰く、サプライズとはびっくりする体験に近く、例えば夜道で急に声をかけられたときであったり、ぼーっとテレビを見ていたら急に知人が出演しているのを見たときのような体験だ。予期していなかったことが起こることへの心理的反応とも言えるかもしれない。

対して、パーセプションとは「確かにこのことを私は既に知っている。今まで特に意識せずに見逃してきていたが、そうかこれはこんな姿を持っていたのか」という気づきや発見のニュアンスが強い体験だ。

その本で引き合いに出されていたのは

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

という有名な句だ。

蛙が飛び込む水音さえ聞こえてくるような、静けき池端。
そこに佇んでいるときの心持と、その景色を包んでいる全体の”感じ”を、確かに人は知っている。

(池端に限らずとも)そんな静かな風景の中に身を置いたことも、人生のどこかで一度くらいあるかもしれない。
そのとき、かすかに心に感じたが、言葉にできずそのままにしておいたざわめきに、俳句によって形が与えられた。
その時に人は「確かにここで言われていることを私は知っていた。このことにフォーカスしたことはなかったが、そうか、それはこんな形を持っていたのか」という発見に感動するらしく、その体験こそパーセプションであるらしい。

自分がすでに知っていたことに、形が与えられ、見過ごしていたものごとに焦点があてられること。
思えば、言葉の習得は大部分そうしたパーセプションの連続なんじゃないだろうか。

大学で受けた翻訳論の講義で、シニフィアンとシニフィエという語を習った。
シニフィエとは「意味されるもの」であり、シニフィアンとは「意味するもの」を指す。
「犬」という言葉があるとき、「犬」という言葉そのものや「犬」の漢字はシニフィアンであり、「犬」によって意味される、あの四本足の毛の生えた、跳ね回る動物のことがシニフィエである。

地上に無数の言語がある限り、一つのシニフィエ(意味されるもの)に対して無数のシニフィアン(意味するもの)が紐づく。
”あの四本足の毛の生えた、跳ね回る動物”とペアになるシニフィアンだけでも「犬」「狗」「dog」「perro」「chien」…といくらでも挙げていける。

このシニフィエ/シニフィアンという語を使うなら、言葉の習得とは、

①特定のシニフィアンと紐づかない、生の体験/記憶が、暮らしを通して自分の中に蓄積し
②あるときに、蓄積してきた”名前のない体験”と紐づくシニフィエに出会い、「このものごとにはそうした形があったのか」というパーセプションを体験する
③そして、そのシニフィエ/シニフィアンのペアが自分の中に大切にしまわれる

という過程を辿ることが多いように思われる。
最初に「世の中にこういう言葉があります」と、シニフィエから学ぶようなケースもあるにはあろうが、日常的・一般的な言葉をおおよそ習得しきった、大人になってからの語彙習得は、シニフィアン先行のほうがずっと多そうだ。

ところで、wikipediaには以下のようなというパラドックスが掲載されている。

探求の対象が何であるかを知っていなければ探求はできない(さもなくばそれは顔も名前も知らない人を探すようなものである)。しかし、それを知っているならば既に答えは出ているので探求の必要はない

探求のパラドックス

始めてこの短い文章に出会ったときは、要は「何かを新しく発見することなんて本当はできないのでは?」と言われてしまっているようで頭を捻ったのだけれど、先述のシニフィエ/シニフィアンの話、および①~③の過程を持ち出すと以下のように答えられるかもしれない。

日々の生活で、名前のつかない記憶や印象がシニフィエとして自分のうちに溜まっていく。それは、ある意味半分知っていて、半分知らないような、発酵しているものだろう。
あるとき、何かしらの言葉や議論、すなわちシニフィアンに出会うことで、記号と表現が一対になり、固く自分の中にしまい込まれる。
その過程の中においては、確かに全く経験したことも知りもしないことは自身の語彙にすることは出来ない。だが、シニフィアンなきシニフィエという半端な状態が自身の中で燻っている以上「知っているならば既に答えは出ている」ということもない

ある種、探求とは形のない経験や記憶に輪郭を与えていくことなんじゃなかろうか。

ーーそもそも体験することなど不可能な、純粋に抽象的・概念的な領域の探求を日々している方には怒られそうな整理だが、自分の生活知としてはこの整理はしっくりくる。


人が使う言葉や語彙は、客観的な情報伝達物のツールというより、その人個人の記憶や経験を、うまく手近な語彙で包んだだけのものかもしれない。
同じ単語や文章を使っているように見えて、一皮むけばその人その人の記憶や経験、ウェットなものが中身にくるまれている。

まるで道行く人々が、それぞれ1ページずつ大切に育ててきた語彙集ーーレキシコンを懐に抱えているように。

私は私の記憶や経験と、それを包む言葉を持っている。

私は、まだ言葉になる前の原始的な経験や記憶を内に漂わせている。

他人は他人の記憶や経験と、それを包む言葉を持っている。

他人は、まだ言葉になる前の原始的な経験や記憶を内に漂わせている。

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