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いじめについての意見①

私はこれまでのnoteでも述べてきたが、分子生物学者としては一定の業績をあげてきており、2000報以上引用されている筆頭著者論文(某トップ誌に掲載)を有しているなど国際的な活躍をしている専門家である。その一方で、素人ではあるが、いじめについての研究家でもある。本稿ではいじめについての私の考えについて述べたいと思う。またこのnoteは大体の内容が、私の2023年10月28日にXにてポストした内容と同じである。また公益的な事も考え、このnoteはほとんどの内容を無料とするが、前回の無料noteと同じく、お礼のセクションを作るので200円の投げ銭も設定している。


1. 研究家

いじめの本題に入る前に、先に研究者と研究家の区別だけ記述したいと思う。おそらく読者諸氏らも「そんな説明無くても分かるから大丈夫だよ」と思っているかもしれないが、とりあえず私なりの説明をすると、研究者というのは大学や研究所(企業も含む)などの機関に所属し、その分野で評価される成果(査読付き原著論文など)を出している人物を呼ぶ。特にアカデミア(大学や学術機関などを指す)の研究者とすると、文部科学省の科学研究費補助金(科研費)の番号を持っていることも多い。理系分野では基本的には博士号を所持していることが望ましい(ただし博士課程の大学院生も研究者と見なされることもある)。一方で、研究家というのは、必ずしも機関に所属したり、学位などの認定が必要なわけではない。あくまで自称で名乗っても許されるものである。そういう点では、私が分子生物学者なのは間違いがなく国際的にも認められていると思うが、いじめ研究家というのは、素人の自称に過ぎない。そこは明言したい。つまり、実際に教育機関などに所属するいじめに関する研究者・大学教員ではないので以下に述べることはあくまでアマチュアによる見解であることは留意のうえでお願いする。

2. いじめっ子の心理

これまでの様々な過去のいじめ事件などを振り返り、また実際にいじめをやったことがある人物が成人した後に、大学や職場、またはどこかの飲み屋などで言っていた話を総合すると、いじめっ子というのは多くの性善説的に人間をとらえている人たちからみたら大変冷酷な恐ろしい存在である。

例えばいじめによりいじめられっ子が自殺したり、またはそのまま勢い余って殺してしまったとして、それをうまくうやむやに始末して、いじめっ子が無罪で終わった場合、いじめっ子はおそらく反省をするどころか「お、俺様は人を殺したことすらあるぜぇ!」と信じられないような悪い自己肯定感で満たされてしまって、異様な自信を持ってしまうことがありえる。そしてその後の社会における生活態度でも「ふん、貴様らは女とやったとかそんな低レベルな話をしてやがる。俺はちゃんと人も殺しておるぞ!」と内心では凄い優越感を抱き、なんとも普通では持ちえないようなパワーのある姿勢を持って物事をやって行ってしまい、正直なところ大いに成功すらしてしまう可能性がある。
 この話、実際に1988年から1989年に発生した女子高生コンクリート詰め殺人事件という猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄事件があり、この時に犯人たち(4人)は未成年であったことから重い罪で罰されることが無く、結局のところ4人中3人の犯人がその後、再犯をし、さらにはその一人は「俺は人を殺したこともある」と誇らしげに語ったという実話からもかなり裏付けられる。

そして私自身も、例えば小学校で大きないじめをやった人物が中学校に行ったら楽しそうに話し始めたのを目撃したことがある(私自身の学内カーストは当時はかなり低かったのでどうすることもできなかった)。また大人になった以降でも飲みの場などで話している人物を見たことがある。要は、教育機関や職場などで事を起こした際に、次の場所にいったらもう前の話は武勇伝ということで自慢話のようにしてしまうのであろう。
 これはロシアの文豪であるドストエフスキーが「罪と罰」で老婆を殺したラスコーリニコフが殺した罪悪感にずっと苦しめられるという心理について深い描写があるわけだが、いじめで殺した場合は、おそらくいじめっ子(殺人犯)は「殺した上にバレてもいない。俺は凄い」とか完全に罪悪感なく、通常では手に入らない肯定感を獲得して終了するという、いわゆる胸糞が悪いを超えた展開になっているのである。


以上のことがあるので自分の家族や恋人、親友がいじめに巻き込まれたときは死力を尽くして守ろうとしなければならない。いじめっ子は罪悪感を持つどころか、殺したらそれを自分の自己肯定感の一つのよりどころにも使おうとする。これぞ本当の実存の消費とも言うべき強奪をされるのである。いじめられた子は死後も、いじめっ子すなわち殺人犯の自信の糧に消費されてしまうということを読者は全員理解する必要がある。

3. いじめとは何か

いじめ(Bullying)とは結局なんであろうか。いじめという言葉は、現実の深刻度を反映していないという問題がある。私の方から改めていじめについて一言で説明すると、いじめは殺人の過程である。つまりいじめというのは最終的には殺人になり得る結果が起きるまでの間の出来事である。なのでいじめがあまりにも長く続けば殺人事件に十分に発展し得るのである。これは疾患に例えればまさしく癌(がん)の悪性化のようである。最初であれば取り返しがつきやすいが、どんどん進行していくにつれてダメージが巨大になり、いじめられっ子は後遺症も残るようになるが、さらに進行すると死に至る。癌も自分の宿主(ホスト)というか、本人を殺す意図で増殖して増悪(ぞうあく)しているわけではないであろうが、最後はホストを滅ぼしてしまう。いじめっ子は殺人をしている自覚がないかもしれない。しかしながら、最終的には相手が自殺する、または自分の手で殺して終わりする、という結果が得られた際には「仕留めた!」となり、上に書いたような異常なほどの肯定感と自己満足を得るのではないかと考えている。つまり完全な悪に近く殺人をしている最中なのである。そういう点から見ても、いじめは改めて生命に関わる大変な脅威であり、特に子供を持つ保護者は決して甘く見てはならないものだということが分かる。

4. 実は危険な保護者の立ち位置

最近は減っているかもしれないが、とどめを刺す(つまり、自殺に追いつめる)のはいじめられっ子の親が果たしてしまう場合もある。いじめというのはありとあらゆる物理的なものも含むいやがらせを行うことによってもちろん勢い余っていじめっ子自身が殺す場合もあるが、しばしば「この世における居場所をなくさせる」という詰将棋みたいなものを仕掛ける場合がある。その際に、親が自分の子供が受けているいじめが「殺されている最中」であることを己の見識不足により理解できずに「お前ももっと彼らと仲良くできないとだめだぞ。仲良く出来てないお前が悪い!」と最後の追いつめをすることがある。これで学校では殺人過程であるいじめを受けながらも、家でも守ってもらえなくなって、この世にいる場所がなくなり自ら命を絶つわけである。いじめっ子は最後の殺しのステージをいじめられっ子の親に委託することがある。そう、親が殺しの共犯であり、いじめっ子はいじめられっ子の殺しをその親と共同作業で実行することがあるのである。親は自分の子が自殺したら己の罪もいじめっ子に転嫁しないと身が持たんだろうから泣き叫んでいじめっ子を否定したり、正当化を頑張るだろうが、その場合は親も殺しに加担した犯罪者であると私は考えている。
 以上から親は自分の態度の取り方を少しでも間違えたら、それで子供が死ぬことになる。見る人が見れば、子供を殺したのは親でもあるということが分かる状況である。親はいじめは殺人の過程であり、いじめっ子は「自分の子を殺そうとしてくる犯罪者」だと思って接するべきである。

5.実はとても苦しい「周り」の立場

いじめにおいて重要な立ち位置なのは「親」もそうであるが、それに並んで同じくらいかそれ以上に重要な立ち位置の存在がある。つまり「周りの人達(クラスメートなど)」である。この「殺しの過程」であるいじめの際にしばしば「周りが見て見ぬふりをしていて見殺しにした。こいつらも共犯だ」という話が持ち上がることがある。生き延びたが後遺症に苦しむいじめられっ子自身やその親が、後になってそのように見殺しにしたとみなされる子供の周りのクラスメートへの憎しみを口にすることもある。
 しかし私は「周りは共犯だ」という考え方には基本的には反対というか異議を唱えたい。もし「いじめ=殺し」が行われているとき、それをもしも止めようとしたり助けようとしたら、そのいじめられっ子はそこで解放されて、助けようとした子がより酷いいじめを受けることがある。つまりいじめを助けようとしたりすると、その者が身代わりになる懸念がある。もちろん死に至らしめられることは普通にある。子供が自殺したという事件も、元々はその子がいじめられていたのではなく、別の子を庇ったらそこから始まったというのは実際にある。

上の実際の事件も見て欲しいが、間違いなくいじめられている者がいた際に、それを周りが助けるのは「自分の生命が危機にさらされる可能性も十分にある」ということを皆も知って欲しい。実際の周りのクラスメートは、巻き込まれると自分が本当にいじめられることがありえることを分かっているから動くにも動けない。見殺しにしていると後で言われることがあるが、本当に動けない。そして現実の世界では、いじめられっ子を助けたら自分がいじめられるようになり、さらにはいじめられっ子だった者も自分をいじめてくるようになることもある。そういうことを下手したら小学生ですら多くの子たちは気が付いていて動けないのである。ただ流石に殺人の過程であることまでは気が付けないことも多い。自分の保身で本当に精一杯のこともある。そういう点では以下の悲しい回想もある。

いじめは子どもがやっているが決して甘く見てはいけない。担任は必ずしも動かないし、いじめっ子の親は有力者である可能性もある。親が有力者であり、例えば私立の小中高であった場合に、親が多額の寄付金を払ってうやむやにしていじめっ子が無罪で無事に卒業したり、罰されることなく次に行くことができてしまう場合もある。その時に、いじめっ子は平然と同窓会にも現れるかもしれないし、言うまでもなく罪悪感は皆無である。仮に自分の子がいじめを目撃した際に、もし見殺しにした立ち位置にいても親は子供を怒ったりはしないでほしいと思う。それは子供も死ぬほど子供なりに考えて保身を図った末の判断だと。そして自分達大人も、今子供の立場になったらどうするかを考えてみても良い。見殺しにする子供とほぼ同様の判断をしないと命が危ないような立ち位置になる可能性もあるし、またいじめられる側になってしまって普通では済まないかもしれない。自身の腕っぷしが強かったり色々と優れているから、仮に今の時代の子供だったとしてもいじめなんて自分は平気だと思う親もいるだろうが「全ては相対評価」である。どんな場合でも上には上が普通はいる。自分より総合的なパワーが上のいじめっ子に目をつけられたら大変なことになるという概念は捨ててはいけない。

5.対策

自分の子をいじめから守るためにはどうすればいいだろうか。まずは初動が大事であること。そして担任などが動く学校なのかどうかも重要である。またいじめっ子の親が何かしら社会的な有力者やセレブリティなど厄介な人物かどうかも知る必要がある場合もある。そしてどうしようもない場合は、もう子供を学校に行かせないことが重要になってくるように思える。鬱とか病気、やる気がないから不登校というわけではなく、普通に学校に行ったら危険なので行かないようにせざるを得ない。ただし共働きの親だと、子供がいじめられて学校に行かなくて良いとしても、1人で子供を取り残すことになるなら現実的に大変である。私の方も、正直対策についてちゃんと十分に自信をもって何か提供できる知識を有していない。確実にプラスになる提案としては、自分の子がいじめられたらまずどうするかは事前に決めておいた方が良い(自分の子がいじめっ子だった場合はどうする?という問題も当然同時に提起されることになるだろうが、それは本稿では申し訳ないが扱わないこととする。機会があったら別に良く調べた上で執筆したい)。

6. おわりに

いじめという行為は、おそらく本能的に一定数の男女に組み込まれていたり、または条件が揃うと自然に生じうる人間におけるありふれた行動であるが、解説したように死に至らしめられる危険なものである。「いじめはいじめられた方に必ず原因がある」という言葉もあるが、その原因が、いじめられっ子の肌の色や、親の職業や、または名前が最近逮捕された犯罪者と同じだったとかだったら、どうだろうか。それは確かにいじめられっ子の側が「いじめられる条件がそろっていた」のだとは思うが、決して落ち度があったりするわけでもない。いじめについては多数の人達が議論しており、一部では正当化ややむを得ない場合もある話などもされているが、それは話している人たちは自分が殺される立ち位置になりうることを理解できていないし、当事者についてもよく分かっていないのである。私はいじめについては結局はアマチュアの研究家に過ぎず、プロではないので見解としてもそれほど洗練されたことは話すことができない(一方で、遺伝子とか分子生物学ならプロのそれなりに正確な見解を述べることはできるのだが。)。しかし、いじめについてのnoteは機会があるならばまた今後も書いていきたいと考えている。本稿をここまで読んでくれた読者にはまずここで感謝したい。残りの部分は投げ銭で支援してくれた読者への御礼の話になる。

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