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不倫は、なぜいけないのか

最近のニュースにうんざりするとともに、もうちょっと有意義な性愛についての議論ができないものかと、このところ思っています。というのも、現代社会における様々な問題に対する大きな要因の一つが性愛だとわたしは思っているからです。社会における理性的な性の制御はあってもいい。一方で生物としての野性的な奔放さもまたなくてはならないのではないか。性そのものは悪ではないし、また善でもない。生物としてただ「そういうもの」だからだ。このバランスが崩れると、その欲求を別のはけ口にて消化しようとする。暴飲暴食に走る人は激増し、異常な性癖を持った人は増え、且つその抑圧された性のエネルギーは結果的に望まない反社会的な犯罪という行為に向かうのではないか。ただ、この手の話はなかなか難しい。あまり決定的な根拠がないし、一歩間違うとハラスメントだとか、ジェンダー差別だといった話に陥ってしまう。

これという答えが提示できる気はしないのだけど、不倫というテーマをきっかけに思うところをダラダラと書き綴ってみたい。思考の垂れ流しのようになるかもしれませんが、いっしょに考えを巡らせる旅のお供をしてほしい。


なんとなく、目次だけ先に決めてみました。こんな順番で文字を埋めていこうと思います。

生物学的にダメなのだろうか

生物的に言えば、人間は乱交型の動物だということになる。ひとりの男性を愛し続けることが純粋だとか、ひとりの女性だけを愛し続けることこそ純愛だというのは、生物学的にはまったくあてはまらない。

ひとつジャレド・ダイアモンド氏が言っていた生物進化論的な観点が面白い。わたしたち霊長類の祖先をみると、強い一夫が多妻を独占する「ハーレム社会」では力の差に苦しみ、「乱婚社会」では短い排卵期に性交相手のところを次々と回らなければならなかった。人間は排卵日を隠すことによって一夫一妻制のスタイルに変わり、それによって社会の安寧と性愛を楽しむ生活を得たんだと。

排卵日を隠すことによって、安寧を得たという説明が興味深く面白いと思った。これによって眼の前の子供が自分の遺伝子を持っているのか、他人の遺伝子を持っているのかがわからなくなるのだと。自分の遺伝子を持たない子供を殺してしまうようなことが動物界ではあるらしいのだけど、排卵日を隠すことで、メスは生まれてくる子供が誰の子供であるのかオスに隠すことができるようになる。

つまり、安寧した社会を得るために一夫一妻制という形に移行していったのだけど生物的には乱交型であり、そのなかで穏便な生存戦略として排卵日を隠すという生物的進化をした、とも読み取れる。もっとあからさまに言えば、不倫をする男性にとって、生まれてくる子供が相手の女性の夫に育てられることになる場合、自分の遺伝子を残すより大きなメリットを得ることができるし、不倫をする女性にとってはよりよい適合する遺伝子を獲得するメリットがあると。。。一夫一妻制という社会秩序は保ちつつ、ゆるい性愛を許容すべく進化してきたということだろう。人間にとって不倫はむしろ生物学的には歓迎されるべき行為と言うことになりそうだ。うーん、こう書くとなんだか歯に衣を着せない生物学の観点ってなんだか無粋というか空恐ろしい。。。

結婚という約束ごと

物事には多角的な視点が必要です。わたしがこの生物学的な観点に賛成できないのには、ひとつ大きな理由があります。人間は生物ではあるけれど、理性的で倫理的な精神性を持っているとも思っています。その観点から不倫がダメだという理由があります。それは結婚という約束ごとをしている、という点です。

後述しますが、わたしは「結婚制度」にはどちらかというと否定的な見解を持っています。ただ、それがどんな不毛な制度であったとしても約束は約束です。結婚というのはふたりの人間の間に取り交わした「約束ごと」です。これを「破る」という一点において、わたしは不倫は不正だと思っています。約束を破った側には罪の意識が残り続けるし、破られた方はもちろん傷つく。その約束ごとがそのふたりの間に大きな「意味」を与えられれば与えられるほどその傷は甚大になっていく。

逆に言えば、そのくらいしかダメな理由が見つからない、とも言えますが。わたしも結婚を楽しんでいるたちなので、個人的な立場で言えばあまり結婚に対して否定的なことを言うのも憚られるのですが、個人的な感想はいったん脇に置いて、、、社会的な思想として結婚を語るとき、むしろ、結婚に対して抱いている多くの純愛やロマンスといった観念は、近代から現代にかけて市場が生んだマーケティングの一端ではないかと思っています。

だから結婚は不要ではないか

だから、わたしは結婚そのものが不要ではないかと時折主張するのです。結婚という制度そのものが不毛な約束ごとだからです。厳密にはその反論もあるので、完全に不毛とはここではまだ断言しないでおこうと思います。

約束を破ることがいけないのはわかります。でも、守れない約束を制度化しようとする社会のほうがもっとおかしいのではないか。。。冒頭にも書きましたが、これはマーケティングです。生物的な人間の正常な欲求を抑圧することで、ひとりの女性を愛しなさい、ひとりの男性に寄り添いなさいと聖人顔でたしなめながら、テレビにはミニスカートのアイドルが艶めかしく踊り、上半身裸のイケメンが女性を優しく抱きかかえる。セックスは有害だと言い隠し、その傍らそこかしこで匂わせる。全くちぐはぐの現象が繰り広げられている。このちぐはぐな現象こそが有害だとは誰も思わないのだろうか。。。そうやって盗撮をする青年が捕まり、痴漢がつるしあげられる。推し活だといいながら、パパ活で稼いだお金を推しに貢ぐ女子もいなくならない。

このような社会の性錯誤は、不毛な結婚制度に起因しているのではないかという仮説をわたしは捨てきれずにいる。

贈与から結婚を考える

さて、このあたりから少し話が込み入ってくるかもしれませんがついてきてください。じゃ単純に結婚制度なんてなくしてしまえばいい!かと言えば、話はそう単純ではないのではないかと、わたしは最近の学びから思うようにもなりました。結婚という制度が生まれたのには、それなりの文化的な意味があったのではないか?ここでは更に「贈与」という観点から結婚を考えてみたいと思います。

「贈与」というのは「市場」の反意語だというところは、みなさんわかっていただいているものとして話をすすめます。

結婚は「市場」によるマーケティングだという話をしましたが、今度は逆に、結婚をそれとは真逆の「贈与」という側面から考察してみたいのです。

結論から言えば、結婚の本質は「交換」にあるのではないか。これは贈与論のモースや、構造主義のレヴィ・ストロースから着想を得ているのですが、彼らの言う、本質は交換にあるという主張がわたしには衝撃的でした。価値のあるものを交換するのではなく、交換されるから価値があるのだということです。社会の本質はこの交換にある。相手に贈与することで、また贈与を返納する。全ての人がこのように交換の連なりに巻き込まれていくことで人と人との「つながり」が生まれる。このような永続するつながりはお金による「市場」にはないものです。これは現代社会のなかで最も薄れてしまっているつながりだとわたしが考えているものです。

さて、結婚をこの「贈与」という観点からみると、これは女性の「交換」の儀式ではないかということです。このように書くと女性を交換対象のモノとして扱っているといった差別的な意味として捉える人もいるかも知れませんが、そう単純なことと受け取らないでほしい。そのように性急に結論づけずにしばしお付き合い頂きたい。

世界のあらゆる部族のなかで、近親相姦の禁忌という習慣はどこにでもあるのだそうです。近親相姦がなぜいけないのか?それは同型の遺伝子の掛け合わせによる奇形が生まれる確立が高くなるからだ、、、と、習いましたよね?でも、実はこれ生物学的にはあまり説得力がない。他の要因によって奇形が生まれる確立に比べて、近親相姦によって奇形がうまれる確立というのは極小さいからです。では、なぜ世界の各地で近親相姦が禁じられているのか?これはとても不思議なことなのです。

ここにひとつの答え(仮説)があります。己の部族だけで交流していたのでは、集団は閉塞的になりやがて社会環境が成立しなくなる。そのため、女性を他部族へ送りだし、またその代わりに女性を迎え入れるという部族間の交換ではないか。禁じることによる部族外への交換の促進がみてとれるということです。レヴィ・ストロースはこの一見ランダムに見える各地の近親相姦のタブールールの中にこの交換を促す数学的な法則を見つけ出すのです。そうやって個人の視点を超えた先に、大勢の人びとをとらえる無自覚な思考の領域が存在することを示したのです。

なかなか、しびれる思想です。。。

形骸化している結婚という枠組み

このような観点から結婚をみるとき、現代社会における結婚は少し意味が違います。現代社会における家族は核家族化しており、お家だとか部族だとかいった社会集団はもう存在が薄くなっています。ですから、むしろ結婚するといったとき、集団から「独立」し己の核家族を築くという意味になります。ここには贈与や交換といった意味は含まれないのです。

「市場」によってわたしたちの集団はより部分最適化、細分化、核家族化させられており、贈与関係から成り立つ人間関係というものはことごとく破壊されてしまいました。そうなると、近代化以前にあった結婚という習慣そのものがまるで形骸化したマーケティングと化してしまっている。そのように思うのです。

祭りと性愛 - 明治以前の日本文化

さて、ここで日本の民俗学的な文化様式や習慣についても、さらっと触れてみたいと思います。

昔は比較的、性に対してずいぶんとおおらかであった、みたいなことを聞いたことがある人は多いかも知れません。よくよく民俗学的な書物をみてみると、かなり性に対して(現代人からみると)節操のないw文化だったことがわかります。お祭りは無礼講であり、そこでは誰と床をともにしてもよいという風習があった村は多かったようだし、村中の人と関係を持っていることがあたりまえだったといった話も聞いたことがある。そのような祭りの最中にできた子供は、父無し子であってもその地域で大切に育てられたのだそうだ。

普段の社会的な生活が人間の理性による縛りであるなら、お祭りはその開放を意味する自由であったのかもしれない。そうやって、理性と本能とのバランスを取っていたのだと思うと、むしろ現代社会よりよほど生物的に健全な生活だったのかもしれない。今となってはそれがどのようなものだったか知りようがないのだけど。。。現代社会は頭でっかちの知識偏重で、自身の体の声や生体について無頓着すぎるのではないか。

このような文化は明治以前には一般的だったようだけれど、明治政府によって世界に恥をさらす習俗として禁止されたのが今に至っている。これによって、お祭りの風習だけでなく混浴といったものまで禁止されるようになった。今のわたしたちの常識感は、この明治政府以降に作られたものだと言っていいと思います。

さて、わたしがここで注目したいのは、日本が乱交社会だったんだ!みたいな話ではなくって「性愛」と「結婚」が別とみなされていたという事実や、そういった習慣です。現代社会では、結婚したら一生その人以外の異性との接触は持たないといった誓いを立てる。性愛と結婚はセットです。性的結合を基礎とした社会的関係のことをわたしたちはおおよそ結婚と呼んでいます。

一対の男女の継続的な性的結合を基礎とした社会的経済的結合で,その間に生まれた子供が嫡出子として認められる関係。

広辞苑

ところが、民俗学的に言えばこのような観念は明治以降に作られたもので、それ以前の感覚として、婚外での性交というのがある程度認められる社会環境にあり、またそれによって生まれた子供を受け入れる素地もあった。結婚と性愛というのは別の軸で考えられていたのではないか。ましてそれによって人格が否定され吊るし上げられるといったことはなかっただろう。

フランスでは今でも大統領が不倫しててもそれがメディアで話題になったりバッシングされることはあまりないというし、日本でもつい数十年前は二号さんなんて呼称が当たり前にあって、割とおおらかだったように思います。不倫と結婚が結び付けられ叱責するようになったのは、おそらく過度に結婚の誓いというものにロマンスを求めるアメリカの文化からきているのではないだろうか。そして、それは割とつい最近の感覚だということになりそう。

見えてくる2つの道

さて、ここまで話が進んでくると、わたしが何に言及したいかということがうっすら推測できちゃったかもしれません。それは未来の社会を思い描くときに次の2つの視点が大切なのではないかという考察です。

1|贈与という観点からコミュニティーを考える

結婚というものが部族間の「交換」だったことを考えたとき、それに変わる贈与とは、現代のわれわれにとって何に当たるのだろうか?という考察が必要になってくるように思います。

既に形骸化してしまった家族制度なんてなくしてしまえ、というのは簡単ですが、その重要な本来の意義に代わる贈与関係をわたしたちは何によって築くことができるのだろう。

2|性愛の発露としての無礼講を考える

現代社会において、家族が市場のなかで性愛の足かせになっているのではないかというのが2つめの考察です。結婚と性愛というのは別の軸で考えなければならないと、わたしは思いはじめています。

人間の生物としてのバランスを欠いた社会のなかで、性をどのように受け入れていくのか。性を悪として排斥するのではなく、結婚という唯一のはけ口に押し込めるのでもなく、健全な身体のあり方としてわたしたちが考えなくてはいけない制度設計とはなんだろう。そのために、われわれが疑わなくてはいけない固定概念の壁は非常に高い。

これらの観点をもって

ここまで見てきたように、不倫と一言に言ってもそこには多くの見過ごせない観点があります。生物学的な観点、社会的な観点、経済的な観点、道徳的な観点、民族や風習としての観点、それらのさまざまな観点からわたしたちは結婚というものをどう捉えればよいのだろう?それによって、不倫といったひとつの事象に対する受け止め方は全く変わってくるのです。

わたしたちが普段なにげなく評価し批判している常識は、実はほんの数十年前までは非常識だったかもしれないし、全く別の意義を持っていたかも知れない。そういった思想を掘り起こしながら、無くしていいもの、無くしてはいけないもの、新たに育まなければいけないものを丁寧に紐解いていく必要があります。

さて、ここまででいったん用意していた目次を全て埋めました。今回のために資料を調べたり、あまり裏取りをしたりせず、記憶だよりで書き連ねてしまったので、間違いや理解の足りないものがいつもより多分にあるかもしれません。。。論理的にもまとまりない乱文ですが、そこは、よしなに読んでください。ここは思考を巡らす旅に同伴していただいた感覚で、この後もみなさんそれぞれの旅先に向かい、より深い考察に分け入って行くきっかけになったら嬉しい。

りなる



併せて読みたい

本記事をきっかけにnoteを書いていただきました。性の抑圧から現代の習俗の変遷についていつもながらの独自の視点で且つユーモラスに描かれています。またその巧みな話の流れにひっぱられてコメント欄にあふれるコメントがみなさん深い。。。このようにみんなで考え語り合う場が醸成されているのはとてもうれしい!!


参考


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