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Money ー 6:お金の正しさ

前回のMoney ー 5については、内容が間違っているというご指摘をいただいたので非公開にしています。いずれにしても世の中のお金の総量は主に利息などの要因により無限に増え続けなければ立ち行かないシステムであり、それが有限の地球上で運用しつづけることが果たして可能なのか?という問題提起でした。

さて、気を取り直して、Money 1 〜 4まではお金のしくみについて、5ではその問題点や問題提起を行ってきました。かなり駆け足でしたが、ここまでで、お金のしくみの大枠を理解するだけでも財政支出などの見方が変わり、世の中を変える大きなきっかけになるのではないかと思っていただけたのではないかと願っています。

最後に、もっとも大事なことはお金がどのように使われるべきか?というわたしたち自身の「理念の変革」だというお話をして終わりたいと思います。

資本の意味(モノ → 金 → その先にあるもの)

モノがない時代に資本家に資金と労力を集約し、より効率的にモノを生産すればするほど世の中が豊かになった時代がありました。次第にモノが行き渡るようになると、より効率的にお金を稼ぐことへとその活動の意味が変わっていきました。より多くの資金がより多くの資金を生み、ほんの数%の資本家が世界の人口のほとんどの資産を独占しているような偏った世界が生まれています。

モノが溢れ、富が溢れた先に、わたしたちが次に意味するべき「資本」とはいったいなんでしょう。

わたしたちがより豊かになるために必要なのはお金ではありません(ということがようやく地球上でわかってきた)。重要なのは、わたしたちの時間の密度であり、労力の使い道であり、そこに暮らす環境です。

残念ながら、現代のお金にはそれらの意義を正しく表現することができないでいます。豊かになるためといいながら働いて、お金を稼いで、毎日のほとんどの時間を労働に費やしても人生は豊かにならない。

わたしたちは、「資本=お金」の理念に浸かりすぎています。富が極端に独占される現実に、資本家を批判したくなる気持ちはとてもよくわかります。しかし、「資本=お金」の理念に囚われてしまっているのは、わたしたち自身の方ではないでしょうか。

人に価値を取り戻す

わたしたちが生きる上で最も重要なのは、その限りある労力、時間、地球資源をどう豊かにそして持続的に活かすかです。わたしたちの限られた寿命をどう生きどう死ぬか、それを他の生物や次の世代にもフェアに引き継げるかということが重要です。

お金そのものが目的になっても何も生みません。

旧友と会いたい、仲間と集って音楽をしたい、研究をしたい、しかしながら、その活動に蓋をしているものがお金なってしまっては本末転倒です。お金がかかるから会えない、仕事のために時間がない、予算がないから研究ができない、そうやって目先の生活や環境そのものを破壊し続けます。人はいったいなんのために生きているのでしょう。

まったくあべこべな社会です。

時間の密度(お金を生まない時間 = 無意味だろうか)

現代社会では、お金を生む時間意外は無意味だという観念に毒されているように思います。お金を生む時間とはつまり生産または消費です。これ以外の活動は無意味だと無意識に感じていないでしょうか?

ゴッホは生前絵がまったく売れませんでした。ゴッホが生きていた当時はおそらく多くの人から見てゴッホの生活は無意味なものと思われていたに違いありません。でも、彼の人生は無意味だったでしょうか?

また、30代で事故にあった軍人さんがいました。彼はその後、職を失い文字通り「何もせず」ただ飯を食べ、来る日も来る日も海を眺めてその80歳の生涯を終えました。ところが、死ぬ間際に書いた小説が彼の死後に見つかり、不朽の名作として後世に語り継がれるようになったそうです。

彼の何もしなかった半生は無駄でしょうか?仮に小説が発見されなかったらどうでしょう?いや、そもそもその小説を書かずに死んだとしたらどうでしょう?彼の人生は無駄だと感じる自分がいませんか?

現代のお金の価値観では、彼らの人生を評価することができません。人生をお金で換算しようとすると、限られた時間で必ず何かをしなければならなくなります。その生産物をお金に換算して初めて価値を測れるからです。

ところが、人生を豊かにするものは時間の密度なのです。そうわたしは思います。その時間に何をしたとか、何を生み出したかは重要ではありません。下手くそな絵を書いても、その時間が人生を意義深いものにするだけの濃い密度があれば価値があります。たとえ何もしなかったとしても人生を豊かなものにするのに充分な密度があればそれは価値があるのです。

最近テレビなどで頻繁に言われていますが、あなたに「できることをしましょう」「できることはなんでもやりましょう」なんていうのはまったくおせっかいな話です。

どれだけお金を生んで、どれだけ世界に影響を与えようとも、ただ灰色のビル群に吸い込まれるだけの枯れた時間には価値がないのです。

人の在り方(コロッケを買う少年の価値)

ご近所に毎日コロッケをあげる精肉屋さんのおばあちゃんがいます。そこへ、毎夕「おばあちゃんのコロッケいつもおいしい!!」といって、コロッケを一つだけ買って帰る少年がいました。

ご近所でも評判のコロッケで、おばあちゃんひとりで100円のコロッケを1日で1000個近く売り上げていました。コロッケだけの売上で1日10万円です。でも、おばあちゃんはこの10万円がほしくてやっているのではなく、実は毎日おいしいといって食べてくれるこのたった一人の少年のために毎日コロッケを揚げていました。

ある時、少年は進学のためにアルバイトをしなければならず時間的にも資金的にも余裕がなくなりコロッケを食べにこなくなりました。すると、おばあちゃんのコロッケの製造は1日おきになり、2日おきになり、ついには辞めてしまいました。

するとコロッケの価値を生んだのは、おばあちゃんなのか少年なのか、どちらなのでしょうか。現代社会の中では、生産と消費でしか価値を語ることができないので、10万円の価値を生み出したのは間違いなくおばあちゃんで、少年は売上100円をあげた1消費者に過ぎません。

しかし、人の活動というのは、このような人とのつながりのなかで生まれます。生産活動の末端だけを見て、費用対効果がどうだとか、生産効率がどうだとか、価値がどれぐらいあるのかなどというのは実はとっても偏った発想です。

働かざるもの食うべからず。とはいいますが、働くとはどういうことなのでしょう?この少年は100円が支払えないためにコロッケを買うのを辞めてしまいました。みんなが豊かな時を過ごすのに、お金はどのように使われるべきだったでしょう?

女性問題(お金になる = 価値があるという誤解)

現代社会にある、さまざまな問題も同じようにわたしたちの偏った思想から生まれています。女性問題もそのひとつです。

女性の価値向上といって会社で男女同等の給与水準に引き上げることなどを目指して活動しています。たしかに、経済的に女性は非常に不利な状況にあるので、その活動自体は良いと思います。

しかし、一方で女性が男性化しているだけのように思えてしまうことがあります。女性がこれまでしてきた多くの活動を無価値なものとさげずんでいるように感じてしまうからです。

家事や子育てを生きがいにしている女性は多いでしょう。いまは男性だって家事や子育てに生きがいを感じでいる時代です。ところが、家事はお金にならない、子育てはお金にならない、おいしい料理をつくることもお金にならないのです。こういったものが「価値のないもの」と自らがみなしてしまっていないでしょうか?

会社で働くことや、家で働くことのどちらのほうが価値があるなどということは問題にすべきではなく、それが家族を豊かにするかどうかで価値がはかられるべきなのです。お金による価値判断から離れない限り、単に稼げる活動と稼げない活動のベクトルがスライドするだけで、社会問題の解決にはならないでしょう。

人間の活動や生きる時間の価値を人類に取り戻すという観点からは程遠いものです。あらゆる人間の活動は等しく尊いのです。

人の時間の濃度は一律ではない

お金は人の時間を単に同じ基準で標準化してしまうのです。だから、最低賃金が時給1000円だとかそういう議論が絶えません。

システム開発をしていて思いますが、今まで8時間で100個のものを生産していたものを業務改善により4時間でこなせるようになった場合、生産性が倍になっています。であれば、本来給料は2倍に増えるはずです。

ところが、実際には余った4時間で別の100個を製造するように言われるだけです。つまり、相対的に時間当たりの労働の価値がどんどん下がっていくのです。これはより現場に近い本質的な仕事をしている人ほど顕著です。

その一方で、会社には業務効率を上げるための中間管理職や、そのためのあらゆる手続きであふれています。結果的にただ人を管理するためだけの無意味な仕事に多くのビジネスマンが塩漬けにされています。あなたの仕事は本当に社会にとって必要ですか?この質問に「不要だと思う」と答えるサラリーマンが増えているそうです。

人の時間の濃度は一律ではありません。しかし、安いコストでいかに高粗利を稼ぎ出すかだけが注目されてしまえば、当然人間の時間は一律にカウントされ、より従順に効果的にお金をすいあげるものが、その実に関わらず高給を得るのです。

ブルシットジョブでも指摘されていますが、モノをいかに効率的に生み出すかが重要な資本主義にあって、まったく逆行した状況が社会に蔓延しています。結局お金でしか価値を見いだせなくなってしまったわたしたち現代人が生み出した末期的症状なのかもしれません。

変わらなくてはいけないのは「わたしたち」

変わらなくてはいけないのは、わたしたち自身だということです。現代のお金に集約される多くのしくみは持続困難なシステムです。

しかし、それを持続可能な正しいシステムに変更しましょう!といったとき、次にわたしたちの「正しさ」とは何なのかが必ず問われるでしょう。現代に生きるわたしたちの「正しさ」とはお金による価値基準に偏っています。であれば、その「正しさ」自体が是正されなければ、結局はその正しさの偏りの中でまたこの持続不可能なしくみが繰り返されるだけです。

未来永劫変わらない「絶対的な正しさ」なんてものは存在しません。ただ、今の時代やこれからの自分にとって「正しい」と思えることはなんなのか?それを考えることが次の未来を創造するのだと思うのです。

りなる


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note記事(Moneyシリーズ)

Money ー おカネ
Money ー 1:量をバランスする(インフレ・デフレ)
Money ー 2:お金をつくる(信用創造)
Money ー 3:国の借金なんてない
Money ー 4:お金のムダ遣いってなんだろう?
Money ー 5:利息に強制される経済成長(非公開)
Money ー 6:お金の正しさ
Money ー おまけ(参考にした情報)

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