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コモディティ化とは、価値をデザインすること

最近よくコモディティ化という言葉を耳にします。この言葉を聞くたびに脳裏をほんの一瞬ちらりとかすめる違和感があります。うまく言語化できるかわかりませんが、、、そんな想いをnoteにしてみたいと思います。

コモディティ化とは経済とかマーケティング用語らしいのだけども、斬新だった商品も時を経てやがて市場に多くの同類の商品が出回るようになりメーカーごとの個性がなくなり一般化していく状態のことです。

コモディティ化にはいろいろな要因はありますが、主には市場での規格化だったり、技術の円熟化、モジュール化、法制度化されたりすることで起こります。みなさん経験的におわかりだと思いますが、商品そのものがありふれたものになり、多くは商品としての価値が下がっていきます。

人に対しても使われる!?

これは商品に対して使われる用語ですが、最近これが人に対しても使われるようになってきました。

これまで3人で1つのシステム開発していたものが、パッケージを使うことで1人で導入することができたり、最近はSaaSのサービスを使うことでノープログラミングで簡単にシステム導入ができるようになり、1人で複数のシステムを管理できるようになりました。

仕事やタスクが誰でも使えるツールやモジュール化されたことで多くの作業は軽減され一般化していきます。その反面「人材の個性や特徴もなくなってきた」だから「もっと個性を磨き自分の強みを活かさなければならない」と。そんな主張をこのところよく見かけるようになりました。IT以外の職場でも似たようなことは起こっているのではないかと思います。

こういった状態を人材のコモディティ化なんて呼ぶ人が出始めています。

人材のコモディティ化は不当な評価を招く

わたしは人に対してコモディティという言葉を使うのはあまり好きではありません。誤用ではないかとも思っています。

10時間で1つのタスクをこなしていた従業員が、なにがしの改善を行うことで8時間でこなすことができるようになったとします。こういった場合、本当であれば生産性が20%向上しているので、その従業員に対しての評価(もしくは給与などの待遇)は20%向上しなければおかしい。

ところが実際の職場ではこのようなことは起こりません。

業務改善によって仕事が20%「楽になったはず」だという評価になります。わたしが業務改善をお手伝いしたいずれの会社も業務改善をしたからといって、現場の従業員の待遇を上げてあげるようなことは起こりませんでした。

時給は変わらないので、一見すると誰も損をしていないように思えます。ところが、働く時間に対して現場での成果は増えているのですから、相対的に時間単価は下がっているのです。

これをIT化やツールによる仕事の「コモディティ化」だと主張する人がいます。

しかし、企業がツールの導入をしたと言っても、ほとんどの成果は自助努力によってなされる場合も多く、他の職場にいったらまた同様の別ツールを使うなり、同じ業界でも違ったやり方をしているため、まったくつぶししが効かなかったりします。

ITやツールを使うことで目先の業務時間が短縮されているように見えるだけで、その実は責任だけが増していたり、つぶしの効かないツールの習得を強いられているに過ぎなかったりします。時間単位に求められる生産性が上がっているのですから、よりマクロな視点でみると業界全体で従業員の採用条件そのものが並行して厳しくなってもいくでしょう。

コモディティに対しての新しい定義

コモディティ化することによって人材価値が下がる、というのはとても搾取的な発想ではないかと思うのです。

もし人材に対してコモディティという言葉を使うのであれば、その意味するところは「いちど習得したら学ばなくて良いもの」という状態であるべきだとわたしは考えています。

これは車の運転のようなものです。車の運転は一度習得してしまえば、それがどこのメーカーのものであれ、誰でも運転ができます。レンタカーで車を借りても、会社支給の車でも、友人の車でも、キーさえあれば何も教わらなくっても運転ができます。そういうものであるべきです。

コモディティ化した技能の習得とは、より安定した人材教育の基盤にもつながり、技能習得することでより安定したポジションを獲得できるような優位性があるべきです。

職場や社会がデザインされる時代

いろいろな企業での業務改善を見て思うのですが、どこの企業も根底にある課題はあまり変わりません。なぜなら組織として最低限やらなければいけないことは一緒だからです。

ところが、個性的であり特色的であることばかりがよしとされ、それぞれの企業でやり方を最適化し、それぞれのやり方に固執し、新しいツールができた、新しいサービスが生まれた、こっちの方が使いやすい、あっちの方が効果的だと、毎年のようにとっかえひっかえ同じような業務改善やシステム導入があちこちで繰り返されています。

もちろんそれぞれのやり方に固執することが悪いと言っているわけではありません。特に自社のコアビジネスについては、その限りではありません。しかし、組織や社会の多くの基盤には、真の意味でのコモディティ化ができる部分は溢れています。

極端な例えかもしれませんが、、、請求書のフォーマットは全国共通で構わないし、勤怠管理や、費用精算のしくみだって同じでまったく構わない。Webサイトもただの企業説明なんかは統一フォーマットで充分だと思うし、戦略的な商品宣伝でなければ、ショッピングサイトの購入フローですら特にサイト毎に個性を主張する必要がほんとうにあるのか?結果、うちの母はスマホの使い方を覚えても覚えてもいまだにネットで買い物ができません。コアな戦略として個性を残す部分と、社会的に一般化していくべき部分がまったくデザインされていないのです。自分が高齢化したときどのような状況に置かれるのか考えると怖いくらいです。

ようするに、目先の作業ばかりが便利にツール化されているだけで、社会全体でみるとその実はカオスそのものなのです。個性だ特徴だといって、わたしたち人間も暗黙の内にマーケティングの商材として扱われていませんか。

ほんとうのコモディティ化っていうのは、いちど覚えたら学ばなくてすむもの、どの会社にいってもオフィスの鍵だけ貰えれば、明日からでもそこそこ戦力になることであったり、どのサイトでもわざわざ使い方を覚えなくても、おじいちゃんおばあちゃんになっても、同じようにネット購入ができる、とかそういう社会全体の安心安全をデザインすることではないかと思うのです。

りなる



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