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エドワード・ヤンの恋愛時代

「エドワード・ヤンの恋愛時代」、以前『台湾を知るための72章』を読んだときに出てきたので気になっていた映画である。最近は殊に台湾や香港について、その歴史や映画に興味を持っている。

原題は「獨立時代(独立時代)」、台湾が中国と離れ独自の道を歩むようになって20年が経つころを舞台にしている。急成長して大都会となった台北の街で繰り広げられる男女の様々な事情を描く。時折ナレーションのように挟まれるト書きのような文字だけの画面には、どことなく王家衛の「花様年華」を思い出させた。

なぜ邦題をつけるときに“恋愛”なんてつけてしまったのだろう。確かに男女が出てくればそれなりの恋愛事情もある。とはいえこの作品がメインとしているのはそういうラブロマンスではないと私は思う。おそらく“独立”というワードに何かしらの引っかかりがあったのだろうというのは、私の些細な憶測である。

劇的な起承転結とか、奇想天外な展開とか、台湾全土を巻き込んだ大事件とか、そういうものはない。ただ淡々と、それぞれの人間が交わり、ぶつかり、理解し合おうとし、生きる様を描く。劇伴も少なく、会話が中心の映画なのに、退屈せず引き込まれてしまうところに演出と脚本の上手さが際立つ。

セリフの数々も印象的だった。残念ながら私は中国語は少しわかっても台湾の言葉はわからず、大半は字幕頼りになってしまう。私が言語を学ぶ理由のひとつに、原音のまま作品を理解したいということがある。日本語の字幕は文字数の制約も多く、どうしても情報量が限られる。この映画もまた、原音だったらセリフひとつひとつをもっと深く理解できるのかもしれない。

特にチチというキャラクターが良い。「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンのような髪型の彼女は、いつも笑顔で可愛らしく愛嬌があり、誰もが好感をもつ人物として描かれている。だが、人によっては「いつも笑顔を振り撒いていい子のフリをしている」と受け取ってしまう人もいる。チチ自身にそんな打算はない。自分はただ普通にしているだけなのに、いい子を演じていると周りから思われ、面と向かってそのことを責められて苦しむ姿には胸が痛む。もうどうしたらいいかわからなくなったところで、ある小説に救われる。小説や映画というのは、時に救いをもたらしてくれるものである。

みんな勝手に生きて、みんな勝手に他者をわかった気になって、勘違いされて腹を立てて、ぶつかって、理解する。人間ってそんなものだよなあと思いつつ、だいたいの人間は腹を立てて絶交して終わってしまう。あと一歩先のぶつかるという段階に行くにはなかなか勇気が必要だ。でも本音でぶつかることというのは、結構大事なことなのだと思う。

話は逸れるが、ヴィジュアルでいくとチチはもちろん、私はモーリーが大好きである。ボーイッシュなベリーショートが、整った顔立ちとスタイルを際立てていて、低めな声もとにかくかっこよく、惚れ惚れしてしまう。

「恋する惑星」のフェイ、最近の映画だと「シスター 夏のわかれ道」のアン・ラン、中華系作品にはこういうボーイッシュなショートヘアの女性がよく登場する。上手く言葉にはできないけれど、女の子といえばロングヘアという押し付けがましさがなくていいなと思う。

もう少し早く観たかった作品だけれど、たぶん大学生の頃に観ていたら間違いなく寝落ちていた可能性がある。登場人物たちと同年代の今観ることで共感できる。台湾人だから、日本人だから、ではなく、人間ってみんなこうだよな、という普遍的な事実を突きつけられる。同時に、この監督の作品をもっと観たいとも思わせる作品だった。


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