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合わない靴は、歩きにくい

時折無性に「生きるってメンドクサイなあああ」と思うことがある。なんだか足に合わない靴を履いてずっと無理をして歩いているような感じがするのである。そのせいで、ここ最近2回ほど絶望したことがある。

2年ほど前にこんな記事を書いていた。人は変わるものだというが、私の考え方はおよそ2年前とさほど変わっていないらしい。足に合っていないハイヒールを、脱ぎ捨てたくてたまらなくなる。

少し前に、部署の上司と面談があった。隠さず言えば、先日のオムライスの記事を書いたのがまあその日なのだが、人事考課に関するものだった。

目標を立てるということは、私が小さいころから最も苦手としているものである。例えば「英検1級に合格する」というようなわかりやすい指標のあるものはいいのだが、「いつまでに何をできるようになる」といったいわゆる“具体的な数値的基準や手段が示されていないもの”に対する目標を立てるのが心底苦手なのである。そうしてこういう“目標を立てる”という行為は、学生時代で終わりだと思っていたのだが、大人になったら今度は仕事での昇給や昇進に関わる人事考課というものが存在することを知った。つまり、人生において“何も目標をもたなくていい時期”というのは存在せず、いつも他者の目を気にして、常に何かを追いかけて生きていかねばならないのだ。そんなことをしていたら、人生なんてすぐ終わっちゃうじゃないか。これが絶望その1だ。

私の人生は就職活動をしていたころからどこか調子が悪い。殊に新卒で入社した会社をやめ、無職でいた期間なんて虚無そのものである。そういう期間を経ているのでいわば目下の目標といえば「ちゃんと生きる」ことなのだ。人並みに仕事をしてお金を稼ぎ、人並みの暮らしをする。たったこれだけのことが、私には一大事業なのである。だから「仕事をする」ということに加えてさらに「その仕事でこれを達成する」という目標を立てるというのは、例えて言うならば「フィギュアスケートを始めた全くの初心者が、3ヶ月以内にトリプルアクセルを跳べるようになる」という途方もないことを言うようなものである(相当ストイックで才能がある人ならこんな目標すら達成してしまうかもしれないが)。

ところで、私はなぜこうも目標設定が苦手なのかをふと考えてみた。今までの人生で具体的に数値化できない漠然とした目標を設定したことがあるか。中国の短期留学前にHSK3級に合格して帰ってきてから4級を受ける、というのは、具体的な級と手段がある。第一志望の大学に合格するというのは、漠然としているようで、この科目をこれだけ勉強して、過去問を解いて……と手段が明確だ。

いろいろと考えて行き着いた結論は、どうやら私が目標として設定してきたもののその先にはすべて「親が理想とする娘であること」という大きな目標があることに気づいた。つまり、今まで私は、自分がどうなりたいか、どんな人生にしていきたいかということよりも、親が喜ぶかを基準にして生きていたのだということなる。語学ができれば利発な娘として認めてもらえる、いい大学に入れば親戚の中で自慢になるといった風に、常に親の顔色を窺っていたのだ。私という人間は、両親が描く理想の影を生きていたのだ。これが絶望その2である。他者を責めるなというが、こればかりは親の教育の仕方を責めることを許してほしい。いつも自分たちの理想であることを暗に負わせて、優秀だから手段やその期待を上回る結果を生み出し続けてきた私を、あたかも自分たちの手柄のように言いふらしてきた両親を恨ませてほしい。

自分以外の第三者の理想の影というのは、すなわち自分の足に合っていない靴と同じである。やたらと外すのが面倒なバックルのついたハイヒールを、私はどうにか脱ぎ捨てて、自分の足にぴったりフィットして本当に気に入った靴を探さねばならない。自分が好きだと思える靴を見つけてこそ、生きていくうえでの目標が苦手であることを克服できるのではないか。自分に合う靴を履いてこそ、人生を歩む足どりは軽くなる。仕事だなんだという前に、私はまずこの「靴を脱ぐ」ことを目標にしていかねばならないような気がしている。

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