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人には「忘れる」権利がある

寝起き、ひどいアルコールのあと、
意識がまだはっきりしてないとき

飛び降りたら終わるだろう窓や
凶器になりそうなものが見れない。

自我が乗っ取られそうになるため。

特に罪悪感のたぐいがそうで
汚れたこと、
恥ずかしい思いをしたことさせたこと
一旦、無視しないと進まないから
一旦、忘れたふりしてるけど
それらがふと開放されたら
私は私に死刑にされると思う。

しかし、
刑期満了を設定する権利は
こちらにはないのか?

つまり、トラウマを
忘れること、なかったにすることは
あってはいけないのだろうか。

トラウマ治療が進まない人の一定数は
忘れることに罪悪感を抱いている。
記憶を手放すのを
惜しい、怖い、
申し訳ない、権利がない、と
思ってしまうらしい。

でも、つい最近、
忘れていいんだ、
という証拠が見つかった。

人間の寿命が30年だった頃

ホモ・サピエンスの寿命は
もともと30年前後だった。

尾てい骨や、ムダ毛が急になくならないように
記憶を蓄積する海馬や
その周辺、システムも、
きっとそう変わってない。

ということは、
実質30年分の記憶しか
私たちは持ち運べない。

「でも、今は人生80年時代だぞ?」

かくして人は
仕事に人生を捧げ
というか捧げてる自覚もなしになんとなく生き
不要なことを海馬に持ち込まないように
たまの休日にしか「生きない」ことで
30年を
うす~く伸ばして生きるようになった。

その是非はここでは問わない。

ただ、1年をちゃんと1年カウントで
生きたいのであれば
もう、海馬の仕組み的に
「捨て記憶」は絶対に生まれることになる。

心身の一致

全員の古い細胞は
髪となって切られたり
排泄物として排出したりしてる。

身体がそんな感じなのだから
心がそうじゃない理由があるだろうか。

つまり、心(記憶)も排出が必要、
というか排出せねばならない
ということです。

その「捨て記憶」に
トラウマを当ててはならない理由もない。

だって、身体も毒素から先に排出するはず。
生物があたってウイルス検知したら吐くし
目にゴミが入ったら涙が出るよ。
そういうふうにできてるので
その自然の摂理に抗うことは、
逆に傲慢なことなのです。

だから、安心して浄化してOKなのです。

嫌な記憶はなかったことにしていいのです。

そこに罪悪感を感じる必要はない、
自分だけのせいじゃないし
しょうがないこともあるから

そもそも、罪悪感って
繊細なバロメーターで
あなたや私が、「すごい悪いことをした!」
って思ってることも
それが社会的に裁かれていない限り
世間的には、良くも悪くも「どうでもいい」
ということである。

人間には、忘れる権利がある。

というよりむしろ、
忘れないと、この寿命を不自然に延ばした時代じゃ
生きてられない。

このことを、誰も自覚していないように思う。

☆*+*☆

ちなみに、トラウマを絶対忘れてなるもんか!
と思うのももちろんOKで、
小さい頃肘に刺したペンの芯が未だに残っている
友人もいるし
あえて身体に毒を流して抵抗力を高める
ワクチンもあるので。

でも、その分「きれいな腕」は失われるよ
ということです。

汚い腕を見て
「よし、乗り越えて頑張るぞ」となるのか
「汚い…死のう」となるのか

汚さを受け入れるキャパがあり、
トラウマが原動力になるなら忘れずにいればよくて
そうでないなら浄化すればよいのです。

自分のキャパと原動力その他と相談しながら
うまく記憶を使いたいところです。

☆*+*☆

「トラウマを忘れていいんだよ」の先に生まれた
「本当にいいの?」「なぜ?」まで向き合う人のために
私の思いを共有します。

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