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私がMBTIを学ぶ理由

ずっと生きる意味が分からなかった

生物学的になにか劣ってるとか、劣等感があるわけじゃない
成績も容姿も運動も芸術も得意だし
家族仲も良い。

ただ、今わかるのは、決定的に性格が「散らばって」いて、
両立し得ない性格が混在して、常にコンフリクトがあった。

絶対良くなる、と思いながら、悲観的な将来しか浮かばなかった。
そういう認識をしがちな性格だった。

いじめっ子と目が合わぬよう下を向く生活をやめられない学生生活、
人はエゴの塊で、誰しもが自分のことしか考えない、と絶望していた。

生きる意味や、いじめから人を救う方法を
真剣に考えるクラスメートにであったことがなくて
なんて寂しくて冷たい世界なんだろう、
もう嫌だ、生きるの嫌だ、
こんなとこいても意味がないと。

それでも彼らはすごい流暢にスラスラ喋って
苦でもないような感じで友達をつくってく。

母やクラスメートがすごい馬鹿に思え、偉大に思え。

眼の前に立ちはだかる世界が、あまりにも大きく、
あまりに空虚で。

そんな保育園小学中高生時代の願い
「生きる意味を教えてください」
に納得行く回答を出さない馬鹿ども暇な人がいないことに見切りをつけ
ならば自分で編み出してやろう、と
大学時代、カントを学んだ。

「コペルニクス的転回」という言葉を知ったとき
私の世界も、一緒に回った。
確か早稲田の15号館の1回の教室の授業だったと思う。
いや、生協の本屋さんだっけ。

世界は全部認識で回ってる。
どこまでいっても、認識以上は無理なんだ、と。

もしかしたら。
私が自分を正義と疑わなかったように
いじめっ子も、正義のためにやっていたのかもしれない。
傍観者も、良かれと思って見てただけなのかもしれない。
母も、弟も、愛情は本当で、私の憶測が悲観的過ぎただけかも。

過去は変えられないから。

私はただの歯車だと
みんなもただの歯車だと
そこに生きる意味なんてないと。

大学時代に人類の命を考えた、
急速にエクスパンドした世界観は、
やがて収縮して個の次元に落ち着きつつある。

MBTIも、ビッグファイブも。
アイゼンクの性格の3次元もクレッチマーの3気質もシェルドンの胚葉起源説もシュプランガーの価値類型も、キャッテルの16因子論も。
同じ苦しみから産まれたかは知らないけど。

性善説か性悪説かで盛り上がった大学の日々だけど
なにかされてもされなくても、
ひとりの人間の
そこに悪意も善意もないと。

びっくりするくらい、とっても空虚で

だから、思いっきり楽しむんだと。

昔の苦しんでいる自分に
楽しんでも生きる意味ないじゃんっていって
聞かなかった自分に。

たとえ聞いてもらえないとしても
心から説けるように、MBTIを学ぶ。


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