【ネタバレ注意】映画『すばらしき世界』

昨日観てきました。

テレビ等の特集で紹介されていて、改めて宣伝ポスターを見たときに目に留まった「生きづらさ」という言葉。気になるに決まっているじゃないか。自分の永遠のテーマだもの。何なら大学の卒論のテーマに限りなく近い。というわけで今から卒論セルフカバーを執筆します。笑

私は、主人公の三上に若干近い目線で観ていました。彼の心情が分かりすぎて、共感しすぎて、途中胸が苦しくてその場から逃げ出したくなりました。ちゃんとまとめられる自信が皆無なのでなるべく映画の時系列で書きます…

「自分の犯した罪に対してどう思っているか?」という刑務官の質問に対して、三上は素直な感想を述べたのだと思う。まずそこで「そりゃあ人によって言い分は違うだろうなあ。もちろん殺人罪は許されるべきではないものだけれど。」と。納得していないまま10年以上刑務所の中にいて、なんだかんだ技術を身につけられるほど努力して過ごしていたのだろう。刑務所を出てからの新たな人生に希望をもって。そこですでに、三上のまっすぐな人格が感じられた。

身元引受人の弁護士とその奥さんのあたたかさに羨ましさを感じた。今の私にもこんな人たちがいたらいいのに。まあいないんだけど。

三上は本当に真摯に、まっとうに生きていこうとしていた。でも現実は厳しいことばかり。そんなもんよ。でもそんなもんだなんて思えるわけないじゃない、10年以上塀の中にいたんだもの、実は娑婆の方が地獄だったりするよね。

まっすぐが故の不器用さが、自分と完全にリンクしていた。中学の頃からたまに言われた「お前は自分にも他人にも厳しい」という指摘をされるほどの私。一生懸命な三上の姿を見つめつつ、それでも他者にとっては「前科者」としか映らない。私も他者にとっては「精神疾患者」「やばいやつ」「めんどくさいやつ」としか映らないことを、ネガティブながらも自覚した。自分を受け入れてもらえないことで他者を責めたり、八つ当たりしたりする気持ちも痛いほどわかった。今でこそ、他人と完全にわかりあえることは絶対に無理だと開き直れてるからまだましだけど。考えてもいなかったヤクザの世界に戻ろうとするのも、三上なりの生きる術のひとつだったわけで、私は否定することはできなかった。でも、社会的にはアウトなんだよなあ…はあ…

家族についての描写もあった。自分どどんなに苦しめても、母親に会いたいと思うものなのだなあ、私はというと…三上ほどではないのかもしれないけれど、精神的苦痛(リアルに2回殺されかけた)を何十年与えられてきた母親、それを知らなかったかつ、私に期待をかけすぎて頑張らせすぎた父親を、私は心の底から寄り添うことはおそらく一生不可能。母親を探すべくテレビ局に身分長の写しを送付したわけだが、結局きっかけは食い物にされるという現実。人間って自分を含めて本当に残酷。人類補完計画、案外実現させたほうがいいんじゃないかとさえ思った…笑

でも、三上の努力が実っていく流れには、人の支えが必要不可欠だった。涙腺大崩壊。もうここで終わってほしかった。改めて現実を思い知らされるのである。

就職した介護施設で、別の障がいを抱えた「仲間」に対してのいじり。高齢者介護をする人間であってもこんなもんか、まあそうだよね、そもそも悪気なんて一切ないもん。あそこでキレなかった三上は、ここでキレたらまたやり直しになるから必死で保身したのだろう。あの対応が社会的には正解だったのだろうか。私だったら、「まあ似てますけど、私もうつ病患者なんでそこまで面白おかしく思う気持ちにはなれません」って空気ぶち壊す自信しかない。その場で助けられなかったこと、とてもつらかっただろう。

「仲間」が、嵐の前に花を守ろうとした姿に気づいた三上は、次の日からその人とどう接していくことになったのだろう。そう期待をしていたのに、現実はそう甘くはなかった。

ここで、題名『すばらしき世界』について考える。

最後に題名を表記したのは意図的であろう。結論なんて出るわけはないけど、何とか稚拙な脳みそをフル回転させて挙げていくと…

・死ぬ直前の三上にとっては「すばらしき世界」に思えたのかも。

・三上に殺された被害者の身内等、または三上をただの犯罪者として見る人々にとっては、犯罪を犯した者に罰が当たっただけの話で、そういう意味での「すばらしき世界」

・どんなに再出発しようとしても現実はこんなもんよ、という皮肉を込めた「すばらしき世界」(本当はすばらしいなんて微塵も思っていない)

ってところだろうか。結局千差万別で、視点によってすばらしさの意味合いや度合いなんて違う。なので結論なんて出ません。出そうとすることが愚行とさえ思う。


もうきりがないので、この映画を通して改めて、私は「共感的理解」に努める人間であり続けたいと思った。人間不信真っただ中の今の私は、この世界がすばらしいとは思えないし、信じられる人が現れたとしても同じこと。そんな世界に少しでも和らぎをもたらすためのひとつの方法として「共感的理解」を意識していきたい。そしたら、生きづらさと共存していけるかな。

人間としてのキャパシティ、幸せの尺度、価値観等々、千差万別であることを受け入れましょう。人を否定したところでプラスなものは生まれない。かの有名な「みんなちがって、みんないい」という教育界隈で有名な節に一番向いていない人種が日本人です絶対に。いい加減もう変わろうよ、それこそ時代錯誤よ、日本の教育界よ。


言いたいこと伝わるのかなこれ…笑

疲れたので終わります。共感でなくてもそうでなくても私は全肯定する腹は決まっておりますのでよければコメントお待ちしております。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?