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変化をゆるめて、忘却にあらがう

『忘却にあらがう 平成から令和へ』を読んだ。哲学者であり、批評家でもある東浩紀が5年にわたってつづった時評集である。

ぼくは、筆者が創業したゲンロンにもお世話になっており、時折、日々の合間をぬってこうした人文書を読む。普段はバリバリのビジネスパーソンであるため、直接的に仕事に関係ないのだが、ビジネスで凝り固まった頭に時折あたらしい刺激を送り込んでくれる。本書でもそうだった。

先日、以下のエッセイを書いた。ぼくのライフイベントやキャリアにまつわる話だ。

息子が生まれてからのさまざまなチャレンジを終えた空虚さを書いた。そんなぼくの胸を、東浩紀氏の以下の言葉が震わせたのである。

日本を変えようとなどまったく考えていない。いまのぼくは、ただ、自分ができること、やりたいことに素直でいたいだけだ。
新元号を生きる若い読者たちに伝えたいことがある。…この時代のこの国に、過剰な期待を寄せて消尽しないでほしいと思う。

以前のnoteにも書いたが、息子が生まれてからというもの、自分に変化を強いてきた。嫌な仕事も、苦手な仕事も引き受けた。息子が100歳まで住める家も建てた。ここ数年は、多くのチャレンジをこなしてきた。

そして、自分の生業でもある組織開発に批判的再検討を突きつけてきた。経営に、現場に資する組織開発とはなにか。そのために組織開発はどのように進化する必要があるのか。

2050年の日本を見据えて、ここ数年のぼくは、いつも変化を強いてきたのだ。

氏は言う。

もう偽りの希望はうんざりだと、平成という病を生き抜いた四七歳のぼくは心の底から思っている。

令和は平成よりも困難な障害がぼくたちを待ち受けるだろう。すでに息切れしたぼくに、このままのスピードで走り切れるだろうか。答えは否。その結論をだして、ぼくの心はいくらか軽くなったように思う。

それはそうと、ぼくは同じ結論を新年の抱負としていたのではなかったか。

10か月前の抱負さえ忘却する。「忘却にあらがう」ことの大事さを、今この記事を書きながらも学ばせてもらったのである。

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