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合法的に傷つけ合う

誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたり、人間はそうやって成長していかなくてはいけない生き物で。人間には何かしらの欲があるし、相手に何かして欲しいという気持ちがいつもスムーズに受け入れられるとは限らないから、その時は誰かとの対立が大なり小なりある。

わたしは「恋愛経験はあった方がいい」という定説を持っている。もっと言うと、恋愛したことがある人は仕事でも成長しやすい。

恋愛経験がある人とない人には、明らかな差が出る。本当に人を好きになるとか、付き合うとか、別れた経験があるなどという話のもっともっと手前の話。片思いでもいい、とにかくこの人のことが好きかもしれない、くらいの気持ちでもいい。結果的に別にあんまり好きじゃなかった、でもいいくらいだ。

恋愛は、合法的に傷つき傷つけられることができる経験だと思う。

日常生活では他人に優しく、相手の嫌がることをせず、人と自分を比べて嫉妬せず、思いやりを持ちましょう。というルールがある。しかし、恋愛はそんなこと言っていられない。正気の沙汰ではできないからだ。

恋愛は相手に好かれるためにはどうしたらいいかを利己的に考え、相手の気を引きたくて意地悪なことを言ったりしたり、相手より自分ばっかりが好きな気持ちが強いことに憤りを感じ、相手の生活を自分でいっぱいにすべきだとすら思う。どんどんエスカレートしていろんなことがグチャグチャになり、嫌われてしまっても自分は嫌いになれなくて、食べることができず、眠ることができず、痩せたり太ったり、恋愛依存症を発症する。

どの恋愛でも必ずしもこうなるわけではないが、どこかの恋愛でここまでのメンヘラを発症しておくと、一気に人間は成長を遂げる。

自分ではコントロールできない自分が存在することを知り、怖くなること。相手に真正面からぶつかってみこと。失意のどん底に落ちてそれでも止められない衝動。相手の好みに合わせまくって自分を押し殺し、全身全霊で相手好みを体現すること、自分でも知らなかった自分の嫌なところを知ってしまったり恥ずかしい経験をすること、絶対に2人だけにしかわからない時間を共有すること。

この経験は、人間なんてみんなそんなもんだ、という許容範囲の拡大につながる。どんなに規律を重んじ、聖人君子を心掛けても、あんなことやこんなことをしてしまうのが人間で。そしてそれを許される関係として恋愛相手が存在する。

だからこそ恋愛相手以外には、節度を持って距離感を間違えず、相手を試したりわがままや甘え発動によるストレス発散を避け、こうすべきという価値観を押し付けないようにもなる。

承認欲求を思う存分発揮すること、相手は自分の思い通りになるべきだと強要することは、恋愛でやればいいとわかるから。

仕事をし続けると、成長の踊り場がくる。ゼロもしくはマイナススタートから知識や技術を身につけ、ある程度まではハイスピードで自分のスキルアップを感じる。学校で先生に教えてもらえばテストの点数が上がるようなものだ。しかしそこから先は、創意工夫という領域になる。答えのない問いへのトライをまず考え、それが良いか悪いかわからないけど勇気を出してやってみたり、結局失敗して悔しい思いをしたり、自分なんてダメなんだと悲しくなり、気づいたら周りから嫉妬されたりもする。

この時に、自分の殻に完全に閉じこもることを選んでしまうと成長は止まる。チャレンジし続ける気持ちとか強い意志や信念の話では全然響かない場合がある。さらに成功体験を1度でも味わえるようにと、周囲がどれだけサポートしても、それは当たり前のような顔をし、日々淡々とノーリスクなことだけやることを選ぶのにハイリターンは主張するようになると、成長できないどころか、存在の重さだけが露呈してしまう。

恋愛経験は、360度の自分をまず自分が知ることができるツールなのだ。自分の中にある感情全てを把握できるし、さらけ出すこととさらけ出されることへの抵抗や違和感や喜びが自分の中にあるかどうかもわかる。強いプレッシャーがかかることへの度胸がついて、どうやってもうまくいかないことがあると知る。恋愛経験は、人間関係のいちばん有象無象であり喜怒哀楽を短期間で知ることができる。人間という相手がいるからできることで、恋愛経験が豊富であれば、いろんな人間の性質をたくさん知っていることにつながる。

そして何より、合法的に人間が傷つけ合い、それこそが醍醐味であるような脳内物質を出すことで、それでも進むことを諦めないバイタリティすらチャージできるから本当に不思議なんだけれど、恋愛経験というツールは人間をやっていくために使っておいた方が生きやすくなるかもよ、という話。

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