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【京都からだ研究室】足半と魔女トレと摂心と。(2023年4月)

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"自身のからだと心そして魂の調和をとりもどし、自身を活かすための"からだ・こころ・わたしを探究するコミュニティ"、後藤サヤカさん2021年から主宰している「京都からだ研究室」

3シーズン目となる2023年度の前期(4月・5月)は、「魔女トレ」西園美彌さん(舞踏家・ダンサー、魔女)をゲスト講師としてお招きして、『「立つ」~足元·土台から積み直す~』をテーマに探究しています。

このnote記事では、魔女トレセミナーを初めて体験するにあたって事前に取り組んだこと、魔女トレ当日に起きたこと・感じたこと、セミナー後に実践したこと、その後の身体感覚の変化などを記していきます。

1. プレ魔女トレ:足半の日々。

ダンサーであれ、アスリートであれ、一般人であれ、老若男女すべての人において、「基礎基本、土台は同じ」。
すべてに通じるものでなければ【本質】とはいえません。体幹や骨盤も土台と言われますが、私はまず「足」をつくることが先決。
身体は"足から積み上げる"。基本的には二本足で移動している生き物だからです。

京都からだ研究室公式Webに寄せられた美彌先生のメッセージより抜粋

4月29日(土)に行われる前期第1回講座では、足指と足の裏にアプローチして、足の裏の感度を上げる様々なワークに取り組む…ということで、ここで私は、「これは使えるのではないだろうか?」と、持ってはいたもののここ最近はほとんど使っていなかったあるアイテムを思い出しました。

それが「足半(あしなか)」です。これを使って、魔女トレセミナー当日までの数週間をかけて、身体の準備を調えようと思い立ちました。

足半は、足部の前半分だけの草履。
かかとは浮かさないで、地面につけて履きます。足指はギュッとは握り込みません。
ソールはこうなっていますが、室内履きで使っています。

戦国時代には織田信長が履いていた、また、東京・上野の西郷さんの銅像も足半を履いている、現代では長良川の鵜飼の鵜匠さんが履いていること…などなどでも知られる履物。

数年前に手に入れて使い始めた当初は、足の裏が痛くて痛くて、なかなか履きこなせませんでした。よくテレビのバラエティ番組などで、芸能人が"足つぼマッサージ"を体験して、足の裏を固い棒でグイグイ押されて「ぎゃああ痛ぁーい!!」と叫ぶ場面があったりしますよね、そういう感じの痛さ。

しかし、履いて過ごす時間を少しずつ長くしていって、慣れてくると、足半を履いてお部屋のお掃除やご飯の支度などをする際に、思いのほか身体がテキパキと動いてくれているのに気づきました。

また、定期的に講習会に通ってお稽古している中国武術「韓氏意拳」の稽古経験や、坐禅の体験が少しずつ積み重なっていく中で、自宅で足半を履いた時の「丹田への身体の集まり、まとまり、揃い」の感覚も、何となくうっすらと感じられるようになってきました。

美彌先生が著わされた「魔女トレ本」も別途購入して、各ワークの写真図解の下につけられたQRコードからアクセスするとみることができる動画も参照しながら、足首や足指を回すワークなどを、まずは見様見真似で、また、普段の自分の感覚で実践しながら、魔女トレへの準備をしました。

2. 魔女トレセミナー当日。

美彌先生がtwitterでセミナー開催を告知して、参加者を募集し始めると、一瞬のうちに満席になってしまう、いま超人気のボディワーク講座で、また、臨済宗大本山円覚寺での雲水さん(修行僧)の坐禅修行にも取り入れられている(下にYouTube動画(音声)を貼ります)という、うわさの魔女トレに初めて参加してきました(2023年4月29日(土))。

1day単発のセミナーではなく、参加者の顔ぶれが同じまま複数回(2回)連続の講座を行って、参加者の変化をある程度長期に・継続的に追っていく試みは、美彌先生の"魔女"としてのキャリアの中でも初めてのことなのだそうで、京都からだ研究室発足からすべての講座に参加している私にとっては、とても光栄なことと感じました。

触れる、触れられる

魔女トレセミナーでは、これまでにこの京都からだ研究室で体験した様々なボディワーク以上に「身体に触れること、触れられること」を大切にしていました。

講座がスタート。まずは、事前に渡されていた"ホームワーク"の効果測定。(サヤカさん撮影)
美彌先生の足に実際に触れて、興味津々の研究室運営メンバー。

講座が始まると、セミナー参加者がそれぞれに向き合っている(身体感覚上の)課題やお悩みごとなどを美彌先生ができる限り聴き取って、その上で、参加者の手を実際に取って身体のバランスをモニターしたりしていらっしゃいました。立位で両腕をクロスさせて、その手を美彌先生の手に預けると、美彌先生はかなりの深さまでその人の身体のことが"観える"ようなのです。

ヨーガの「木のポーズ」が難しいとお悩みの人のバランスをチェックする美彌先生。

また、参加者向けに後日オンラインで行われた「感想シェア会」の場では、zoomの画面の四角い枠越しに観るだけでも、ある程度のことが観えてしまうという美彌先生は、ほんとうに魔女みたいです!

身心一如:身体がほぐれると、心がほぐれる

魔女トレの"足のワーク"の基本は、足と手を組み合わせてつないで、母指球や小指球を手のひらで包み込むようにしながら足首を回すムーブメント。
足の指や足の裏のセンサーとしての感度を上げるには、足を扱う手もまた、道具のようにではなく「感覚器」としてのありかたが問われてきます。足のワークは、足を稽古していながら同時に手の稽古でもあるのです。

これまでに数多くのセミナー参加者の足に触れてきた、また、美彌先生自身の足にも何度となく触れてきた美彌先生の手は、人間の身体のことを深いところまでよく知っています。
そんな美彌先生の手で身体に触れていただいた研究室参加者には、身体の深いところまでほぐれたからなのか、思わず知らず、わけもなく涙があふれてきてしまう人が何人かいました。

嘗観すべし、身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄になりぬべし。

道元禅師『辨道話』

道元さんが「身心一如」と言う時、「身」が「心」よりも先にきていることに注目です。足元からアプローチして身体を深くほぐして、くつろがせていったら、心の中にわだかまっていた何かが溶けて、解けて、涙が出てきてしまった。「身心一如」という禅語はほんとうのことだったのだな…というのを、実地で見ることができたのでした。

身体感覚を「愛でる、耕す」

講座の中でも、そして、講座後に参加者へ宛てたメッセージの中でも、美彌先生は「愛でる」という言葉を使っていたのが印象に残っています。
facebook上に設けられた、からだ研究室メンバー専用ページに、美彌先生がこの日の講座のまとめとして寄せてくださったコメントに、次のようなメッセージがありました。

力は極力使わないように。蟻んこを潰さない力加減。
感覚がないからといってテキトーになると強すぎてしまいますから、ちょうど良い加減を見つけてくださいね。

弱く優しいのは甘えではないです。
身体を愛でてください。
-寛容と忍耐-
寛容であり続けることへの忍耐力が問われます。

京都からだ研究室メンバー専用fbページより

私は、ともすると身体を"もの扱い"して、道具のように"使用・運用"しようとしてしまいがちです。美彌先生が示してくださった「身体を愛でるまなざし」、とても素敵だなと思います。「寛容であり続けることへの忍耐力」という言葉からも、身体がその聲を聴かせてくれるまで、忍耐強く待ち続けることは、受容的な態度でありながらも、それはすなわち身体と向き合い続ける"全き能動性"のあらわれでもある…との示唆を得ました。

これまでに体験したどのボディワーク講座とも違う仕方で、ときに強い刺激も加えながら、身体に親密に向き合い、触れ合う体験の中で、私は「身体を耕す」イメージを持ちました。

「魔女」と呼ばれる美彌先生(…いや、実際に魔女なのですが)が見せてくれて伝えてくださることは、魔術でもトリックでも何でもなくて、身体を親密に耕していけば、必ず何らかを返してくれる、身体の無尽蔵なスペースとリソースを誰もが持っている!ということだと思います。

美彌先生の深いreflection(内省)

講座後には、会場内のカフェに有志で集まって、美彌先生を囲んで感想をシェアするひと時が持たれました。
美彌先生のごくプライベートな心情にも関わることなので、詳細を書くことはできませんが、先生ご自身やセミナー参加者の身体のことを深く感じて観ることができる美彌先生だからこその深い内省、美彌先生ご自身がいまどういう問題と向き合っているのかを聴かせてくださった、豊かな時間となりました。

講座後、美彌先生を囲んでの茶話会。深いお話を聴かせてくださいました(サヤカさん撮影)

次回講座に向けてのhomework

第1回講座の日に美彌先生から皆に配られた直径3cmのスーパーボールを、足指(親指と人差し指、中3本の指、薬指と小指の3パターン)でつかんで、つかんだ状態で足首を動かせるか、やってみましょう!…というのが、次回までのhomeworkです。
4月の講座当日には、あまりうまくできた気がしなかったのですが、その後、自宅で足指や足裏のワークを続けていたら…

・床に置いたスーパーボールを足裏でコロコロ転がす。
・ボールが転がっていく方向と、指が屈曲していく方向を合わせる

…というようなコツが見えてきた気がして、うまくつかめるようになりました。このnote記事を作成している最中にも、床座りの作業に疲れたら、気分転換がわりに、立ち上がってスーパーボールつかみのワークを試しているところです。

筆者の足。親指と人差し指でつかんでいるつもりですが、これだとまだちょっと甘いかな?

3. ポスト魔女トレ:GW摂心。

魔女トレの日は日帰りで名古屋に戻ってきて、1日休養したのち、5月1日から5日まで、名古屋市内のお寺にて「ゴールデンウィーク摂心」に参禅させていただきました。
「摂心」とは、坐禅のほかに作務なども行う禅の修行道場の日常とは異なり、数日間坐禅だけに集中して取り組む修行です。このGW摂心では、1日午後から5日午前にかけて、一炷40分の坐禅を都合40炷坐らせていただきました

摂心の会場、曹洞宗曹流寺(名古屋市中区)。

魔女トレ翌日の変化:結跏趺坐の場面で

魔女トレから一夜明けて、毎朝自宅で行じている暁天坐禅(朝起きてすぐ坐る坐禅)。両足を腿の上に乗せるように組む「結跏趺坐」の場面で、さっそく変化を感じました。

脚を組む前の状態から、両足が腿の上に乗るまでの(感覚的な)ルート、道筋というのがあって、まずはいつもの感じで脚を組みはじめたら、「こういうルートでも行けるのでは?」と、脚の方から提案してくれたような感覚がありました。
結跏趺坐で坐禅を一炷40分間無理なく坐れるようになって半年ほどになりますが、脚が短い日本人にとって、結跏趺坐というのは必ずしも容易な坐法というわけではない。けれども、魔女トレを体験して、簡単に言うと結跏趺坐が組みやすくなりましたし、組むまでのルートにヴァリエーションが増えた感じもします。そして、坐っている間の丹田への身体の集まり、まとまりも、魔女トレ前とは違う感じがします。

そして実際に坐ってみると、坐りの中で起きてくる様々な雑念や思考を、それに気づきが向けられながらも力づくで排除しようとしたりすることなく、それでいて、外から聴こえてくる音や、自然な呼吸にも気持ちが向けられている…というような、あらゆることをそのまま共存させておける、深く耕された身体のスペースとリソースの無尽蔵を感じながら坐ることができました。
伝統的・慣習的な修行方法の枠組みから積極的に出て、坐禅修行に新たな手法を取り入れて、道場に新風を吹き込もうとしている円覚寺の横田南嶺老師が、魔女トレに目を付けたのも非常によく分かる気がします。

経行:足裏をセンサーにして

摂心では、一炷40分坐ったあとに、立ち上がって手を叉手に組んでゆっくりと歩を進める禅「経行(きんひん)」を行います。

魔女トレ前よりは少しは感覚が繊細に・鋭敏になった足の裏の母指球や小指球を、さながらダウジングのロッドや、金属探知機のセンサーを地面に向けるようにして、畳の上に静かに滑らせると、お能の「摺り足」のような足の運びとなり、上半身のブレが少なく、静かに歩くことができました。

この摂心では、曹洞宗安泰寺(兵庫県新温泉町)で修行された2人組の禅僧ユニット「仏教のアレ」(道宣さん&遊心さん) の遊心和尚と5日間ずっと隣り合わせで坐っていました。

経行では私の前を遊心さんが歩いていて、私はずっと遊心さんの右足の小指に注目しながら歩いていました。すらっと長く伸びて、外側や内側にねじれたり倒れたりしていない遊心さんの足の小指。"安泰寺仕込みの小指"と言ったらちょっと変かもしれませんが、坐禅と経行は必ずセットで行じられますので、安泰寺や永平寺で膨大な量の坐禅修行を積み重ねてきた遊心さんの足が、接心中の私の師匠でした。

私も、お寺での坐禅会の折には、和尚さま方や参禅者さんから、有り難いことに、また大変もったいないことに「坐相や所作、経行の姿がきれい」というお言葉をいただくことがあります。また、かつて参加していた「藤田一照仏教塾」でも、一照さんとペアで行なったあるボディワークの際に、「ひろさんは、通りのよい身体をしているね!」と仰っていただいたことがありました。
以来、この「身体そして心の通りのよさ」をテーマとして、自分なりに様々な探求の場へ足を運んで、学ばせていただいています。この度の魔女トレからは、この探求への大きなヒント・気づきをたくさんいただいています。

4. ワークショップ後の"道聞かれ現象"。

魔女トレレポートの本筋からは少しズレる余談になりますが、今回体験した魔女トレに限らず、坐禅会なども含む様々なボディワーク系のワークショップに参加したあとには、ちょっとおもしろい、興味深いある現象がよく起きています。それが「道聞かれ現象」と私が勝手に名付けている事象です。

これは、上でも少し書いた藤田一照仏教塾に参加した後の数日以内や、もっと早い時には、一照さんが住む神奈川・葉山「茅山荘」での一照さん主宰の坐禅会に参禅したまさにその日の帰り道の大船駅のホームなどで、道を行く見知らぬ人に「〇〇へはどう行けばいいですか?」「✖✖へ行くにはどの電車(バス)に乗ったらいいですか?」などと声をかけられて尋ねられることがよく起きていたのです。

今回の魔女トレセミナーの後でも、同様の現象が起きました。

魔女トレ体験から半月後の5月15日に、京都からだ研究室を主催するサヤカさんによる新作ドキュメンタリー・ショートフィルム『島と生き続ける新三おじい - 1945年の記憶 - 』の完成披露試写会と対話のワークショップが東京で行われ、参加してきました。

その日の帰り道の曳舟駅のホームで、「次に来る電車は、浅草駅に行きますか?」と尋ねられたのです。

その後、名古屋に帰ってきてからも、つい数日前にも、たまたま私がいつも乗るバスが出るバス停を探していた、私の父親と同い年のおじさんが、バスが来るまでの15分間くらいにわたって話しかけてきて、しきりに昔話を語って聴かせてくれたのでした。なぜそのおじさんが私の父親と同い年であることが分かったのかというと、おじさんの昔語りの流れで、お互いに年齢を言い合ったからです(笑)。

それにしても、ワークショップに参加した後にどうしてこのような現象が起きるのか? 統計学的なデータはまるでないのですが、私の感覚ではかなりの高頻度・高確率で起きている感じがしているのです。

身体に直接して、深くアプローチする様々なボディワークを体験した身体は、深いところでくつろいでいて、感覚のドアは内側に閉じてしまわずに、外の世界へ開かれている。それが、声をかけてくれようとしている見知らぬ人の側から私を見たときに、無意識のうちに「あの人はなんとなく声をかけやすそうだ…」と観えているのではないか?

そんな、あまり根拠のない仮説をもって、現象としては非常に面白いことが起きているので、引き続き興味を持って観察を続けていきます。

その他、魔女トレ後の変化。

上に書いてきたことのほかに、魔女トレ第1回"足指・足の裏のワーク"を体験したあとに感じられる感覚の変化には、次のようなものがありました。

階段の降りが快適に。

足の指が、靴の中の狭い空間にありながらも非常に心地よく動いて、特に、階段を降りる際には、足指や母指球、小指球が独自の意思をもって次の段をつかまえに行くような感覚があって、脚の運びもスムーズになった気がします。坐禅のときの経行ではない、普段のような普通の歩行でも、身体のブレが少なくなったようにも感じます。

おしりの上の方がシュッ。

魔女トレ以前は、左右のおしりの上の方、ちょうど「梨状筋」があるあたりが独特の存在感を示していて、歩いているとその部分が「ふにっ」と横へ流れ出てしまうような感じがあったり、疲れてくるとおしりの上の部分から腰痛が始まってくることもあるのですが、魔女トレ後は、このおしりの上の方が身体全体に対して収まりがよくなったというか、「シュッ」「ピタッ」としたフィット感が出てきたように感じます。

脚下照顧:安心は、すぐ足元に。

お寺にお参りや坐禅会に行くと、玄関には「脚下照顧」と書かれた立て札が置かれているのをよく目にします。

人間のありかた、姿勢、動作の最も基本になる「立つ、歩く」を、文字通りの意味でいちばん下で支えている足。この足が元気と心地よさを取り戻してくれば、身体全体の快さ、心理的な安心感も生まれてくるというものです。授かったいのちのリソースを十全に活かしきるための身体の掘り起こしとしての魔女トレワークに感じた大きな可能性。それは取りも直さず、私たちの身体が本来携えている無辺の可能性でもあります。

そして、魔女トレの良いところは、「非常に取り組みやすい」点にあります。魔女トレに少しずつ取り組んでいって、知覚できる身体の変化はまだ少なくても、身体の現地で起きている変容はより大きい可能性があります。具体的な成果・結果にとらわれることなく、感じる力を養うことで変化を促す魔女トレ、これからも続けていこうと思っています。

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