父の死

2005年12月1日、父はこの世を去った。享年91歳。

どんな父親だったかと問われれば、自分にとってはどこにでもいる普通の怖くて厳しい父親だった、と言うしかない。本人はそうは思ってないだろうけど。ほとんど話すことがなかったので、怒られたことや鼻で笑われたことしか覚えていない。

さて、親のことを話すのに、学歴や職歴をつらつら述べる方法もあるが、本人にとってはそんなのはどうでもよいはず。と言うか、そう思っているはず。死んだ後まで学歴や職歴なんてついて回るものではないので。

といいつ、簡単に紹介する。

父の生い立ち

父は、名前を正明という。白虎隊の生き残りの人から書いてもらった書の中の文字をとって名づけられたものらしい。

九州山脈がやがて途切れようとしている熊本の片田舎の球磨川の川岸と山の麓の間の猫の額のような土地で、1914年(大正3年)に父は生まれた。

7人兄弟の長男。そのうち1人は夭逝したと聞く。

私は父の名前の一字を自分の名前に譲り受けた。

その後の父の人生

地元の小学校を出て、地元の旧制中学を出、陸軍士官学校を卒業する。その後、職業軍人となり、満州と南洋諸島に転戦し、病気で日本に戻り、最終的に日本で終戦を迎える。

職業軍人になった理由を聞いたことがある。本人はあまりはっきりは言わなかったが、間接的な事実で分かったのが、収入を得るためであったと思われる。即ち、父の父である祖父が病気で入院していたこと(当時は今のような保険制度が完備されていなかった)、そして、弟妹が多いため生活費となる収入を得るには職業軍人になるのが一番の近道だったからだと思われる。

終戦後、知り合いの伝手で地元の市内の自治体の仕事に就き、母と結婚。子供4人をもうける。私はその4番目の子供である。

その後、熊本市で県の団体職員として仕事を続け、定年をそこで迎える。定年後は市内近郊にある福祉関係の法人の理事長を務め、視力が極端に弱くなったことを機に退任し、自宅で余生を過ごした。

父への感謝

生まれてから大学(院も含む)を出るまでの20数年間、ずっと養ってくれた。感謝しても感謝しきれない。井上陽水の歌に「人生が2度あれば」という歌がある。「仕事に追われこの頃やっとゆとりができた」のくだりになるとどうしようもなく苦しくなる。ありがとうございました。

父が晩年に手懸けていたこと

2020年7月、熊本地方は球磨川豪雨災害に見舞われた。その際、私の実家も浸水の難を逃れることが出来なかった。水に浸からず運よく残っていた写真アルバムがあった。義兄にお願いしてそれを私の自宅に送って貰い、今年前半に写真の整理をした。

その中で、量的に多かったのが2つある。

1つは、戦争で共に戦った戦友に関係する写真。写真からは、生き残った者の使命であるかのように、あちこちと戦友および戦死者の自宅を訪ねて丁寧にあいさつをしていた様子がうかがえる。おそらく、父の一番の気懸りであったと思う。

もう1つは母と晩年に旅行した時の写真。私はこの写真が好きだ。残念ながら、2人で一緒の写真は少ない。

自撮り棒のない時代だし、三脚と言っても重たいのでなかなか持参出来ず、他人に撮って貰うか、お互いを撮り合うしかない。

なので、同じ景色で1人ずつの写真が多い。

一番良いのは、母がおだやかで嬉しそうな顔をしていることだ。大正時代の一種封建的な人間だったのによく母親をエスコートしてくれました。

アルバムの記録を見る限り、父は、旅行では事細かにスケジュールを立てるタイプのようだ。また、行った旅館やホテルの領収証なども綴じられていた。思わず苦笑した。こんなところまで私は受け継いでいる(笑)。

他にも色々あるが言い尽くせない。このあたりで1度結んでおく。

次は母のことを書こうと思う。

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