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春のような温かさがいつもある学校に…「宝物」と呼ばれる活動に潜む危うさ 〜心の宝物59

🌷「宝物」とよばれる活動に潜む危うさ


コロナ機の学校

 7月も半ばの午後、全開にした窓から、時折そよ風は通るものの、校舎2階、5年生の廊下は、この日も熱気が漂っています。

夏の暑さももちろんですが、それ以上に感じるのは子どもたちの掃除にかける思いです。

 掃除は学校の宝物。高学年として、その宝をさらに磨きあげよう。そんな気持ちが伝わる姿です。


 ある集団において「宝物」と位置付けた取り組みは、どうしても同調圧力をはらみます。したい、したくないに関わらず、しなければいけない。さもないと、仲間から集団への帰属意識や忠誠心を疑われ、批判や非難、最悪は排除の対象にさえなりかねない。同調圧力の正体はこの相互不信と恐怖です。

自戒と反省を込めて記します。かつて(ひょっとしたら今も)の学校では、次のような風景がありました。

 『掃除週間の振り返り』等と題した学級活動で、その期間の各曜日の、グループの「掃除の達成度」が、◎、〇、△、×の数で発表されます。よい結果を支えた仲間は拍手で讃えられ、×の原因となった子は反省の弁を求められます。

「やりたくありませんでした」「やる気が出ませんでした」

 正直な反省は決して容認されません。司会者は次のように全体に問いかけます。

「○○君に何か言ってあげることはありませんか」

 誰一人手は上がりません。本音はみな同じだからです。そこで担任の先生の出番です。

「君たちはそんな冷たいクラスか。仲間を想う気持ちはないのか。誰もいないのか!」

 仲間を想う気持ちがあるから沈黙しているのですが、先生の一喝のパワーにはかないません。暗に指名されたリーダー等何人かが空気を読んでおずおずと挙手し、

「やる気が出ないのは、○○君の気持ちが弱いからだと思います」

「○○君には、そう思う気持ちを乗り越えて、強い自分になってほしいと思います」


 人格否定及び思想の自由を侵害する発言です。


 しかし、この場ではそれが「真に仲間を想う行為」として評価されます。○○君が、悔し泣きでもしようものなら、「仲間の思いを受け止めて流した涙」、「掃除週間を通して成長した姿」と美談化され、学級掲示に刻まれたり、学級通信で広められたりします。

 いじめや不登校の芽は、こういう中でも育ちます。


 問題は、「掃除週間」の目標が「集団の達成度」に置かれていたことです。本来は、体験を通した子供の学びを深めることが目的であり、掃除はその手段のはず。その手段が目的化してしまい、集団の達成や進捗の陰に、個の葛藤や学びを置き去りにしてしまう。そんな悲喜劇を日常化してしまった時期が私にもありました。


 ありのままの自分を大切にすることを事前に十分に共有する。○○君をはじめ、全ての子の「やる気」は取り組み期間を通じてどう変容したのか。右肩上がりか、右肩下がりか、日によってまちまちか、それはなぜだろうか。人によってそれが異なるのはなぜだろうか。そもそも掃除は何のためにするのか。本当か。他に意味はないのか。働くとは。個の尊重と、他者や集団と折り合うことは矛盾するか。それが重ならなかったとき、どうしたら隔たりを最小化できるか。


 個の尊重が全ての前提であり、個の学びが目的であることを、集団として明確に共通理解し、姿(言動)を選び取ったありのままの自分の思いや、感じたことに常に立ち返る。上記のような答えのない問いに怯まず立ち向かう。そんな日常の中でこそ、自己を肯定的に理解する力が育つと今は思っています。


🌷床から数センチ


 5年生の彼は野球少年。お父様譲りのたくましい体を丸めるようにして、床から数センチのところまで視線を下げ、廊下掃除に取り組んでいます。その後を指でなでても何もつかないほど、美しく磨きあげています。


 視線を下げることで、高所から見降ろしていたのとは違う景色が足下にあると気づいたこと、その気づきを掃除という取組の中で、妥協なく実行したこと、そこで感じたに違いない葛藤、疲労感、揺れながらも、力を尽くすことを選択し、貫徹した達成感。それらすべてが、彼の獲得した学びです。


「強さ」とは、あまりの単純化ですが、彼がそんな自分自身を、肯定的に受け入れてほしい。「そうか、僕って強いのか」と、そんな思いを心の片隅に持ってほしい。


そんな願いで、お伝えしました。


かけがえのないあなたへ。

素敵なきらめきをありがとう。

出会ってくれてありがとう。

生まれてきてくれてありがとう。

どうか、ありのままで。

どうか、幸せで。

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