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【ナポリ②】マラドーナの街⚽️ナポリは青のフラッグ一色💙

今日は19世紀から20世紀のナポリを考える日。
un cafè飲もうとしたらガス止まって⛽️朝から大家さん来てもらって、、バタバタしてたら飲めんかったがな😑
明日はぜったいふわふわカプチーノ行く。

前回の記事は👇


1.ナポリの壁

昨日、ナポリの街を見てまず感じたことは「黄色」😮!
駅出てすぐ、思った。

ここも!
そこも!

他のイタリアの都市って、もっとカラフルでピンクとかエメラルドっぽい色の建物が多かってんけど、ここはほんまに黄色か茶色。🌽🥔こんな色。

なんで??????

ってビッグクエスチョンのまま、1日目は終了した。

【2日目】
留学先の先生がガイドをしてくださるウォーキングツアー。ナポリの歴史について、2日間かけて学ぶ。


先生の話で
「ナポリは、昔から様々な”外からの力”に左右されてcut and mixされてできてきた。実際に、地理的に南北にも、上下にもlayerになっている。」という話があった。

そこで、昨日地下鉄から地上階までがキツすぎた🥵ことを思い出し、その地下鉄のlayerは人為的なものなのか、いつの時代にできたのか、質問した🚇

したら、ナポリは昔海の下🌊だったから、地質的にもlayerができてるらしい。
さらに、tufo (tuff, 凝灰岩: 火山灰・火山砂などの火山噴出物が凝結して出来た岩石) が昔から産出してて、それを建築資材にするために、地下掘削が進んだらしい。
面白い。

ここにも、火山🌋による影響が表れてるとは😳

(私の専門)

tufoは軽くて、加工が容易で、湿気を吸収して吐き出す

ベンヤミン (Benjamin)は、このtufoこそナポリみたいだって言ったらしい。
外の勢力からしたら、操るのが容易で、色々な文化や人を吸収しては吐き出してたから。

1892年にベルリンで生まれ、1940年にピレネー山脈を越えたスペインの国境付近で服毒自殺したと言われている(真相は未だ不明)。
ベンヤミンこそ、20世紀を代表する哲学者である。

ナポリの街に足を踏み入れると、建物が多孔的になっていて、細胞のように息づき、重なりあっていることに気づく。

ベンヤミン

2.アーケードとシネマ

このツアーで、はじめに訪れたのが、Galleria Principe di Napoliってアーケード。これは18世紀に作られたもの。
その時代、パリに次ぐ第二の大都市だったナポリの繁栄を象徴しているらしい。

ここも黄色い

日本でのアーケードって言ったら、=商店街だと思うけど、ヨーロッパ的文脈でアーケードは、ただ人が通る道に屋根を作る余裕がある=富の象徴でもあったらしい。

中にスーパーとか食べ物屋さんがあるってよりは、財務省があったり、自転車レンタル屋さんがあったり、本当にただの道。

ここでも

アーケードはシネマを予知したものであった。

ベンヤミン

と、言っているらしい。

映画は、動く画像の消費であり、人々の時間を凝縮したもの。

アーケードにおいても、人々がただ通り過ぎ、同じ風景というものは2度と訪れない。人々の時間がそのアーケードという場所に、凝縮されているのだ。

3.なぜ、ヤシの木?

次に来たのはMonumento a Salvo D'Acquisto。
ナポリには、やけにヤシの木が多い🌴

言われてみたら、どこもかしこもヤシの木

ほんとに目につく。

切れてるけど、、右も左も。

ヤシの木は、もともとアフリカから輸入されたもの。

やっぱり「ナポリ出身のもの」ではない。

それは、このモニュメントMonumento a Salvo D’Acquistoの周辺を囲っているのがヤシの木だという事実が示すように、20世紀のファシズムの影響を受けている。

自分たちが植民地支配をしているだってことを見せしめるために、わざわざ木を取ってきて、自国に植えたんやって。。

4.フューチャリズム

次に向かったのは、このモニュメントから続く建築物たち。そしてフューチャリズムの話を伺った。
futurism(フューチャリズム)とは、未来主義や未来派のことをいう。

20世紀初頭に過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、イタリアを中心として起こった。
簡単に言うと、複雑で芸術的な柱や扉、装飾を持ついわゆる「ヨーロッパっぽい」建物から、シンプルで左右対称な、ある意味「ありきたりな」建物への移行。

真っ直ぐで、同じ形の窓が規則正しく並ぶ

1920年代からは、イタリア・ファシズムに受け入れられた。

🏣

ここが、最もフューチャーリズムを象徴すると言われている郵便局。
それとともに、ファシズムの象徴だとも考えられている。

ここの広場は現在、Piazza Giacomo Matteottiと呼ばれている。その名前は、1944年にファシスト党の犠牲になったMatteottiに由来する。当時、社会主義者だった彼は、ただ社会主義者だ、いう理由で殺されたのだ。

5.マラドーナ!!

次に訪れたのは、Murales Maradona!!⚽️🩵
(Quartieri Spagnoliスペイン人街の中)

マラドーナのグラフィティだらけ
レジェンド🤩

マラドーナの神棚さえあった。この区域が特にだけど、どこ歩いてもマラドーナのグラフィティとか写真が壁に描かれてるし、お土産屋さんには必ずマラドーナのユニフォームがある。

ナポリタンでもない彼が、なぜそんなに神格化されているのか?

マラドーナは、アルゼンチン🇦🇷で生まれた。先ほどから何度も述べているように、ナポリは、さまざまな国からの人々で構成されている。
アルゼンチンも、当時その一つであった。ナポリは「アルゼンチン移民の故郷」とも呼ばれていたらしい。

そんな時代情勢の中、彼はアルゼンチン人としてNapoli SSCで7年プレイ。
そして、チームをクラブ史上初のリーグ優勝、さらにコッパ•イタリア🏆獲得(優勝チームはUEFAヨーロッパリーグへの出場権が与えらられる)に導いた。

一躍、ナポリの英雄となったのだ。

そして、ナポリから母国アルゼンチンに戻ったわずか数週間後のこと。

1990年ワールドカップにて、アルゼンチン対イタリア戦が行われた。
皮肉にも、開催地は彼の長年プレイしたナポリ。
ナポリSSCを2度の優勝に導いた彼が、今度は対戦国の代表として帰ってきたのだ。

マラドーナは、「ナポリはイタリアじゃないんだ」と試合前のインタビューで発言していたという。

そして彼の宣言通り、「敵国」代表であるにも拘らず、彼がピッチに入場するなり怒涛のような歓声が巻き起こった。

ナポリの人々にとって、マラドーナは、真のヒーローなのだ。

しかし、この試合はただの国際戦でもなければ、また、ナポリの人々がただマラドーナを応援した、という単純なものではない。その裏には、イタリアにおける南北問題が深く絡んでおり、ここで簡単に説明できるものではない。

https://www.amazon.co.jp/ナポリのマラドーナ―イタリアにおける「南」とは何か-historia-北村-暁夫/dp/4634491915

👆イタリアの今を考える上で、非常に興味深い。


とにかくいーーーーっぱい考えさせられた1日だった。。
それとともに、最終日のサッカー観戦がますます楽しみになったな☺️

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