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ぽんこつな僕は②

 僕はいっぺんにたくさんのことが出来ない。気がかりなことや大事なことがあるとそれで頭がいっぱいになってしまいそれ以外のことを忘れたり、出来なくなってしまう。

 僕は言われたことそのままを受け取る。言葉の裏に隠された意図や遠まわしの嫌味に気が付かない。

 これらは年齢を重ねるにつれ、わかってきたことだった。
 自分の出来ること、出来ないこと、苦手なこと、楽しくないが辛くもなく続けられることは何か、など自分のことがわかってきた。自分自身が自分の一番の友達だから、大切な友達が苦しくなく生きていけるように、工夫している。日々穏やかに、時々、わくわくドキドキするのが理想だ。

 今日、職場で聞いた話。有坂さんが退職するという。結婚し、福岡県に引っ越しをするんだそうだ。有坂さんは仕事も丁寧、立ち居振る舞いも柔らかで、不機嫌にしている姿を見たことがない。彼女のように素敵な人は彼女に釣り合う素敵な人と温かい家庭を築くのだろう。花束を抱えて幸せそうに笑う有坂さんがただただ眩しかった。

 心がずどーんと落ち込み、帰りの電車は乗り過ごしてしまった。僕は有坂さんのことが好きだったんだなぁ。高嶺の花、有坂さんに恋していたんだと気付いた。

 はぁ。まっすぐ帰宅して真っ暗なアパートに戻るのがいやで、反対方向に歩き出す。喫茶店「森」に行こう。
 「森」は、レトロな喫茶店で、テーブル席はおおきな窓に面していて、そこだけ見ると森にいるような気分を味わえる。だから「森」という名前なのだろう。まあ、今は、真っ暗だから何も見えないだろうけれど。静かで落ち着ける店だ。こんな時間に「森」に行くのは初めてのことだった。
 喫茶「森」のドアを開けると、カランコロンと音がして、温かい空気が流れてくる。
「いらっしゃいませ」
店主は、日に焼けて、背が高くがっちりしていて、髪は白い。熊みたい。60代だろうか。愛想がいいわけでも無愛想なわけでもない。そこが、いい。

 僕以外はお客さんがいなかった。いつものテーブル席に座った。
「ブレンドコーヒーと、ホットサンドをお願いします」
 ガラスに自分が映るので、店主がハンドドリップで丁寧に時間をかけて珈琲をいれるのをぼんやりと見ていた。
「お待たせしました」
「こんな時間に、珍しいね」
「そ、そうですね」
「疲れているみたいだね。ごゆっくり」
「ありがとうございます」
 店主と話したのは初めてだった。びっくりした。僕のことを覚えてくれていたんだ。まあ、1年くらい通っているもんな。

 店主の優しい笑顔と言葉に、落ち込んでいた僕の心がほっとやわらいだ。
 珈琲はいつも通りとても味わい深く、シンプルなハムとチーズのホットサンドも美味しかった。

「森」があってよかった。職場と家の間、ワンクッションある空間はいいな。    気持ちも落ちついて、くつろぐことが出来たのだった。


 

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