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物理的に枠からはみ出す行為〜ADHD的勉強メソッド

ADHDの特徴として社会で生きていくのに必要な暗黙の了解を察して理解することができないということがあると思う。
あと、ひとつの分野に特化してるというのも言える。私の場合は数的思考が絶望的に出来ない代わり国語力と暗記能力に恵まれた。そんな私も苦労の末に大学に入れたので今回はADHD的勉強トークをしようと思う。
中3になってようやく焦り出してちゃんと勉強し始めたのだか、まず、中3にもなって偏差値を上げよう云々の前に私は、答案用紙の枠に収まるように答えを書くことも出来なかったし、答えを全てひらがなで書いてしまっていた。漢字で書くと間違えるリスクがあるから全てひらがなで書いた方が良い点を取りやすいだろうと本気で思っていた。書き順もどうしてその通りに書く必要があるのかわからなかった。答案用紙に習った漢字を適切に使って書けと言われたけどでも『言ってることは同じだから良くない?』とずっと思ってた。答案用紙の枠端から詰めて書けばちゃんと枠の中に収まることに15年間気づけなかった。普通の人が無意識にやれることなのに私にはできなかった。
だから授業中、ノートを取るのも苦手だった。先生の優しさでテストで点が取れなくてもノートを出せば点数がいくらかもらえるというのに私には不利に働いていた。私のノートはいつもぐちゃぐちゃで自分にしかわからない暗号が詰まったメモだった。
時が経つにつれ、習った漢字を使う練習として答案用紙に漢字で書く必要があることや書き順通りに書くときれいに書けること、そして字を綺麗に書けると『丁寧な人だ』と思われて好感度が上がるので何かと対人関係が楽になることをひしひしと実感して意識してトレーニングし出したことで改善し、あんなに字も汚く答案用紙からはみ出してた私も今では周りから字の綺麗さを褒められるまでに至った。性格の汚さは治らなそうだが字の綺麗さくらいならいくらでも後から直せるものだと思う今日この頃である。
また、勉強法も自分の特性に合わせて少し変わったやり方をしていた。大学生の今でもその勉強法は変わらず、ひたすら呪文のように覚えたい語句を唱える+講義形式で説明してみることを基本としている。当然のように机にじっと座って勉強するのも苦手なので部屋中歩き回ったり寝転がったりしながらこれを行うし、10分ごとくらいに勉強する科目を変える。特に女子だと、まとめノートを作ったり問題を解く子が多いが私はペンを動かすスピードが脳みその回転に追いつかず書き終わらないうちに脳だけが先に進みそのスピードの差を埋めるためにノートに単語の頭文字だけ書くとかざっくりしたことしか書けないため他人から見た意味不明な暗号集になる。当の本人でさえ後から見返すとよくわからないこともしばしばだった。その点、言葉は便利だ。脳みそのスピードに合わせて、かなりの速さにできるし、やはり耳•口と五感を駆使した方が覚えやすい。私は家で勉強するときはそこにジェスチャーをつけてさながら講義してるような感じで脳みそを整理しつつ覚えていく。
また、数的思考に弱く国語に強いため数的感覚で普通の人が処理するところもいちいち言葉で説明しないと理解できないため、数学の解答を見てもよくわからなかった。だからいちいち因数分解の③の公式を使って解いてこれを移項すると答えはx=3だからこれに代入すると…….と一問ずつ全て日本語で説明を下に書いて解いていた。この解き方をしてる時点でいかに数学に向いてないかがよくわかる。結局数的センスがない私は一向に数学が伸びず、国立大学を諦めた。
そんな私の小中高時代の成績は国語100社会100英語90数学40理科40みたいな不思議なもので、しかもテストの難易度がどう変わろうと不思議と結果は同じだった。だから難化したテストでも得意な国語なら100点を取るからガリ勉と気持ち悪がられるしどれだけ易化したテストでも苦手な数学は40点だから周りから馬鹿にされるしであまり成績に良い思い出はない。それでもひとえに勉強を続けていたのは国語と社会が面白いからである。そして英語は1ミリも文法を理解していなくとも国語力と英単語暗記能力だけで長文を乗り越えて点を稼いでいた。やはりどれも80点取れる方がクラスで浮かないしどの科目もオールマイティに出来た方が良いのだろうがま、これは特性上受け入れるしかない。
よく、大学受験の時などに苦手な科目だろうと捨てるのは最終手段にしろと良く言われるが私のように何かしら発達障害などを抱えて突出した分野と全く出来ない分野がある人は周りからどんなに反対され奇異な目で見られようと即座に得意分野に注力した方が良い。私はあの数学にかけてた時間が無駄すぎたといまだに後悔している。だってあんなに頑張っても3桁の割り算すら出来るようになっていないのだ。
あの時私のノートの汚さ、数学の出来なさを馬鹿にしてきた先生は元気だろうか?
中学生の頃、当時憧れてた法政大学に行きたいと彼にいうと彼はお前みたいにまともにノートも取れず全ての基礎である数学が出来ないお前には無理だろと一笑にふされたことを今でも覚えている。確かに私はノートを取ることも数的センスも皆無で勉強に向いてないのでは?と病んでいたこともあったが向いてる部分を伸ばせば法政大学ではないものの、ちゃんとそこそこの偏差値の大学に入れた。
たまーに京大生みたいだねと褒められることもあったがそれは京大生への風評被害である。多分京大生もノートが綺麗な人が大半であろう。ノートが汚い、取れない人は確かに京大や東大にいるイメージがあるがそれは少なからず発達障がい的なものを持っている一部の私のような妙に一つの分野に特化してるがゆえに勉強が得意な人であってマイノリティだ。
解答欄同様、割と人生もはみ出し者だった時期は長い。が、最近『頭いいね』『独特で面白いな』と言ってもらえることが増えて、案外この人生も悪くないと思い始めている。

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