どこまでも清潔で明るい家

9. 地鎮祭、そしてクレーム

 そうこうしている間にも、弟の新宅にかかる話は前に進んでいた。まだうだるように暑かった二ヶ月前、僕はリビングでカレンダーの七月の頁をミシン目に沿って切り取っているところだった。しかし、案の定、器用にはがせず右端の方に小さな紙片が残った。わりに物の扱いががさつなのだ。僕は残った紙片をむしり取ってから、冷蔵庫を開けて、ウーロン茶を出した。グラスに注いで飲むそれは格別で、体の細胞のすみずみにまで行き渡るような気がしたほどだ。
 飲み干したグラスをテーブルに置き、背凭れの付いた椅子に腰掛けながら、僕はぼんやりと窓の外を眺めた。弟夫妻の新居が建つはずの土地には依然としてスギナが密生し、幅を利かしている。わが時代という感じだ。時折、湿気と熱気を含んだ風が吹く。ここ十数年、夏にどこかから運ばれて来る風を歓迎したことはない。エアコンの室外機から送り出される熱風のような風しか吹かないからだ。そんな風なら凪の方がずっとましだ。
「地鎮祭っていつだっけ?」僕は電卓をわきに帳簿をつけている母にそう訊ねた。母は帳面にぎっしり書き込まれた数字と睨めっこしながら、「八日」とだけ答えた。来週の土曜日だ。
「あの三人は来るのかな?」
「そりゃあ来るでしょう?自分たちの家が建つんだから。前日が金曜だから、その夜にでも来て一泊して帰るんじゃない?連絡はまだないけど」
「ところで」と僕は本題を切り出した。「あのスギナ、どうする?地鎮祭までにはきれいになってた方がいいよね」
 母親はレース地のカーテンをめくって外を見た。「業者に頼んで刈って貰う?熱湯をかけちゃえばいいとか何とか言われた気もするけど」
「それで枯らすってこと?」
「みたいよ」
 僕は幾つかの記事に当たってみたが、これはたしかに有効な方法のようだった。他にも塩を撒いて駆除するやり方があったが、家の配管や基礎部分を腐食させかねないという明らかなデメリットがあった。塩害というやつだ。
「じゃあ、湯沸かしてかけてみる?」僕は正直、気乗りしないまま控えめな提案をした。何往復しなければならないか考えただけで憂鬱だった。
「お湯かけて枯らしといてくれれば、平日、時間見てきれいにしとくわ」母はガスコンロに火をつけて、やかんで水を沸かしながらそう言った。僕も状況に押し切られるように、電気ケトルに水を注ぐ。僕はときどき思うのだけれど、決断された状況を前にすると、個人の意思や気分にはほとんど為す術がない。僕たちにできるのはそれに見合う能力をつけるか、そっぽを向くかの二者択一だけなのだ。
「長靴履いてった方がいいわよ。納屋に黒いのがあるから」

 雑草の生えていない、露わな土地を見たのは実に久しぶりだった。朝方、白い猫がそこを横切るのを目にしたが、あれはいったいどこから来たのだろう。首輪をしていなかったから、きっと野良だ。いや、世の中には首輪のされていない幸福な飼い猫もいるのかもしれない。断定はできない。にしてもあの白さはいやに瞼の裏に残る。
 茣蓙のような敷物の上に祭壇が設置されると、そこは一気に聖域となった。祭壇の上には大根や人参、鯛、グレープフルーツが並んでいる。「桃とメロンも」と妹が急に言い出したために、それらも祭壇の端っこの方に並べられることになった。勤めが青果市場だったから、社割で幾らか安く手に入ったのかもしれない。
 神主が榊の小枝を手に現れた。祭事の装いだけでも充分暑かろうにマスクもしなければならないのだから、今の神主様は大変だ。神主は祭壇に向かって恭しく二礼し、腕を大きく広げて二拍手した。そして深々と一礼し、榊の小枝を頭上でいちどだけ振った。
「ヒョオー」
 神主が急に伸びのある声をだしたために、僕は身体をびくつかせてしまった。驚きの声はでなかったのが幸いだ。ふと横を見ると、父親は父親で笑いをこらえねばと必死に顔をゆがめている。どっちもどっちだ。その中でただ一人、弟だけが神妙な面持ちで前を見つめている。
 祝詞が読み上げられているあいだ、僕は自分の足元を見ていた。ニューバランスの574、クラシック。余計な仕掛けを施していないぶん、素直に好感が持てる。靴紐が緩んでいることに気が付いたが、この場で直すわけにもいかなかった。それにしても、なぜ神事にかかわる文章はこうも繰り返しが多いのだろう。神様に土地を使うことを告げているのだろうが、伝わるのは意味内容よりはむしろその調子の方だ。そういうものだ、と言われればそれまでなのだが。
「お直り下さい」神主が言った。「ただいまの『祝詞奏上』で、式の前半部が終了いたしました。続きまして、式の後半部へと移ってまいります」
 神主が新たに手にしたのは酒枡に似た木彫りの器だった。器の中に細かく切られた白い紙が入っているのが見えた。
「あれは何をしてるの?」神主が土地の四隅にそれを撒きに行っている間に、妹が僕に訊ねた。悪魔祓いの一種なんじゃないか、と僕は答える。
「『散米』って言ってたから、あの白い紙片を米に見立てているのかもしれない。ライスシャワーでお清めをするっていう話は聞いたことがある」
「ふうん。私が悪霊だったら、米なんか撒かれたら逆に寄って来ちゃうけどな」
 神主が戻って来たので、会話はそこで途切れた。神主はこの土地に見立てた盛砂に最後の紙片を散らす。
 その盛砂を参列者で順繰りに均したあと、我々はふたたび祭壇を前にして並んだ。神主ももう一度、榊の小枝を手に取る。
「これより玉串によります拝礼を行います。工事の無事竣工と、併せて益々のご繁栄を神様にお祈りいたします。それではご施主様、ご主人より前へ」
 促されて、弟が一歩前に進み出る。玉串を時計回りに回して柄の方を神様に、と紙のついた榊の枝を手渡された。彼はそれを説明通りに祭壇に供え、二礼二拍手、一礼して後ろに下がる。次はその妻の番だ。彼女は後ろを向いて、幼いココを僕に預ける。久しぶりに腕に抱いたまだ小さい命は柔らかくも、重たい。それでもその温もりを自分の肌で感じられたことを僕は少し嬉しく思った。自分の娘でもないのに、変な話だ。
 みなが一人ずつ拝礼を終えた。神主が我々の方に向き直る。
「これにて地鎮祭を終えることといたします。ヒョオー」

「ねえ、聞いた?パパがハウスメーカーの担当者と喧嘩してるらしいよ」
 喧嘩というのはいささか誇張された表現であったが、ごねたというのは事実らしい。何でも新しい給水配管を通すのに敷地正面のレンガ塀を壊さねばならないのだが、その復旧費が見積もりに含まれていないのだ。電話口で父が施主である息子に向かってがなり立てている。
「別個に自腹で払えってのか?家建ってから新たに業者手配しろってか?」
「いやそうじゃないよ。おれはお互い気持ち良くやりたいだけなんだよ。だから請求もそっちに回すつもりないよ。こっちで持つよ」
「いくらなんだ?」
「五万」
「五万ぐらい見積もりに入れろって言えばいいじゃねえか。若いからって舐められてんじゃねえのか?」
「……」
「しかもそれだけじゃねえんだぞ」父はまだ黙らなかった。「もう工事始まってるってのに工程表ひとつ寄越して来ねえで。これじゃいつ、どこの業者が入るんだかもわかんねえじゃねえか。今日だってろくに挨拶もしねえで敷地入って来て、作業してんだからよ」
 敷地にはいつの間にか仮設トイレが設置されていて、産廃置き場用のテントまで張られている。その脚にはさおが括り付けてあって、上の方で緑十字の旗がはためいていた。
「それは担当者に言って持って行かせるよ」
「それだけじゃないからな」と父親は念を押した。「レンガ塀のことも言うんだぞ。『原状復帰を約束しない限り、壊させない』って。わかったな?」

 呼び鈴を聞きつけて玄関の戸を開けると、そこに立っていたのはどっかで見たことのある男だった。すぐにハウスメーカーの担当者だということは思い出したが、名前が出てこない。……山、………小山さん?
「すみません。工程表を持って参ったのですが、お父様は?」
 いません、と僕が答えるより先に、母親がリビングのドアを開けて姿を見せた。
「あら、わざわざ持って来て下さったんですか?郵送でよかったのに」
「いえ、車で近くを通りかかったものですから。この度は失礼いたしました…」
 母親が来客を中に通す。彼のジャケットの肩の部分が雨で濡れているのが、目に入った。僕は階段下の引き戸を開けて、タオルを取り出してから、同じようにリビングに入った。
 居間からは夜間ライトに照らされたまだ更地の土地が見える。夜間ライトの下には防雨ボックスが知らぬ間に設置されていた。今日も日中、業者が入ったのだろう。重機だけが雨ざらしで置いてあった。
「地盤の改良工事が始まっているみたいですね」小山さんは外の様子を見ながらそう言った。「ドリルの付いた重機で縦穴を掘って、杭で補強していくんだそうです。このまま工程について説明を続けても……?」
「御願いします」
「今の地盤改良工事が終わるとすぐに基礎工事へと入っていきます。生コンを流し入れて、という作業です。それから足場を組んで棟上げという流れになります」
 しばし沈黙があった。世の中にはそこに含まれる感情がはっきりと捉えられない間というものが存在するが、これはそれに当たるだろう。雨がぱらぱらと窓ガラスを打ちつける。僕は我慢し切れずに、軽く咳払いした。
「上棟式は、十月の第三週を……」と彼は言いかけたが、すぐに思い直して口を噤んだ。「いや、それはご覧になればわかりますね。えっと、レンガ塀の件です」
「…はい」
「えっと、すみません、こちらの手違いで当初の見積もりに入っていなかったようで、ご指摘いただきありがとうございました。ただ目の前の道路から水道管を引き込む際に、あれを壊さないわけにはいかないもので……、元通りにすれば壊しても良いという理解で、お間違いないですか?」
「それなら」と母は言った。「主人も納得すると思います」居間の時計は午後七時五分を指し示していた。父はまだ帰っていなかった。あの人はどこをほっつき歩いてる?クレームをつけたのは自分だろう。
「それでは、くれぐれもお父様にそうお伝え下さい。いつまでもお待ちしているのもご迷惑かと思いますので。また何か不手際があれば、何なりと。では、私はこれで」

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