どこまでも清潔で明るい家

5. 原エレーナの家 1

 明け方、僕はいつものようにベッドの中で目を覚ました。マットレスはいつもと違って少し柔すぎるような気がしたが、不審には思わなかった。むしろ心地良いと感じた。僕は微睡みの中で起き上がるにはまだ早い、もうひと眠りして夢の続きでも見よう、そう思った。とても気がかりな夢だったのだ。僕はもう一度目を閉じて、眠ろうとする。が、思うようにいかない。僕の気持ちとは裏腹に、眠気は去り、目をつむっているのが苦しくなってきた。なぜだ?急に心臓の鼓動が速くなる。何かがおかしい。マットレスだ。自分の部屋のマットレスがこんなに柔らかいわけがないのだ。
 僕は飛び起きた。厚ぼったく光沢のあるカーテンの隙間から届く光はまだ弱い。それでも部屋の様子を見るには充分な明るさだった。部屋はいたってシンプルな造りだ。簡素すぎると言ってもいいかもしれない。部屋の中央にクイーンベッドがあることを除けば、ほとんど何もないのだ。壁には僕の物と思われる上着がハンガーに掛けられて吊るされている。そして、そのすぐわきにアンティーク調の姿見鏡が床に直置きされていた。見たことのない風景だ。口から深い吐息が漏れる。
 僕はとりあえず天を仰いだ。そうすることでここがどこなのか、わかるわけではない。案の定、そこには何の変哲もない天井が広がっているだけで、ヒントらしきものは得られなかった。当たり前だ。この世界では自分の身体を物理的に動かさないことには何もわからないのだ。
 クイーンベッドの端から反対側の端の方にまで移動するのにえらく時間がかかった。頭が混乱しているせいで、何も反対側まで行くことはない、自分が飛び起きた方の端から下りればいいということに気づかなかった。気がついたときにはすでに移動を終えていた。静かに床に足を下ろす。
 喉が渇いて口はからからだった。薄暗い部屋の中、ドアノブに向かって歩き出す。金属製のそれは手をかけるととても冷たかった。
 扉を押して部屋の外に出ると、そこには廊下が伸びていた。視線の先に階下につながる階段が見える。それを数段下りると左手にすぐ、ペニンシュラキッチンが見下ろせた。リビングの中央にはローテーブルもある。しかし、当たり前だが、どこも明かりは点いていなかった。一階の壁時計は五時十分前を示していた。
 僕はソファーの上で寝そべって約二時間を何をするともなく潰した。テレビを見るという選択肢はあったが、リモコンが見当たらなかったし、家主を起こしたくもなかったのでやめた。僕は仕方なく、窓ガラス越しに電線の上の烏の隊列を眺めていることにした。その間、彼らは一度たりとも鳴かなかった。
 原エレーナが姿を見せたときにはすでに七時は回っていたと思う。いや、七時ちょうどだったかもしれない。とにかく僕が気づいたときには彼女はもうキッチンの中にいて、朝食の準備をしていた。彼女の目の前でコーヒーメーカーが心地の良い機械音を立てる。窓の外を見やると、烏は一羽たりとも残っておらず、彼らがいた場所には奇妙な静寂だけが残っていた。0という数字を存在感のあるものとして認識したのはこのときが初めてだったかもしれない。
「何も聞かないの?」彼女のその言葉で僕は我に返った。熱々のコーヒーがたっぷり入ったマグカップと厚切りトーストが半切れ分載った皿が目の前にある。ただ肝心の食欲が僕の方になかった。
「茹で卵と小倉あんがあるけど、どっちが良かった?それとも両方、食べる?」
 僕は曖昧な返事をした。そして頭の中で、食文化の観点から「両方」という選択肢が妥当なのかどうかを考えてみた。時間にして三秒ほどだったと思うのだが、どうやら彼女はこの間に耐えられなかったらしい。はっきりとした返答など待たずに、「茹で卵ね」とだけ言って、冷蔵庫の方に体を向けてしまった。小倉あんの方が喉を通りやすいかもしれないと思ったときにはすでに遅かった。殻がきれいに剝かれた茹で卵が運ばれて来る。
「ありがとう」僕はもごもごとそう言った。彼女は腕を胸の下できつく組んだまま黙っている。僕は彼女の脚に視線を落としながら、次に言うべきことを探していた。しかし、全く頭が働かない。とりあえず出されたものは口にしていいのだろうし、礼儀にも反しないだろうと判断して、マグカップに手を伸ばした。コーヒーは実に美味かった。おかげで少しずつ生きた心地が戻って来るのを感じられた。鈍い頭がゆっくりと回り始める。
「んーと、僕は何から聞いたらいいんだろう?」間抜けな質問だった。これならいっそのこと黙っていた方がずっとましだったのではないかと一瞬後悔したが、すぐに思い直してこれでいいんだと思った。馬鹿をさらすところから全ては始まるのだ。
「あなた、昨日の晩、ひどい状態でここに来たのよ。顔面蒼白で、まるで能面みたいだったわ。インターホンも押さずに玄関の扉叩いてて、私が出るなり『入れてくれ、社長に手を上げちまった』って。いったい会社で何があったのよ?」
 僕はソファーに浅く座り直して、昨日の夕方からの出来事を思い返してみた。出先から戻って来て、勤怠管理のことで社長に相談を持ちかけた。そして、その場で少し口論になった。いや、違う。口論にもならなかったんだ。そもそも真面に相手にしてもらえなかった。それで背を向けられて……、あの短く刈り上げられた後頭部を見ているうちに―。
「勤務形態のことで社長と話し合おうと思ったんだ。社長は取引先か、わからない誰かと電話してた。だからずっと待ってた。うんざりさせられるぐらい長い電話だったけど、まあそれは仕方ない、下っ端には関係のない大事な用件でもあったんだろう。相手は社長殿だから……」
 僕はそこまで話してから、ちらっと彼女の目を見た。反応を確認したかったのだ。でも彼女の目は何の感情も湛えていなかった。彼女が「それで?」と話の続きを促してくれるのを待っていたが、待ちぼうけに終った。
「……あまりに長かったんで、一回、席を離れたんだ。用を足したかった。で、戻ったら、社長は同じスマートフォンの画面をスワイプしていた。自分が何て声を掛けたのかは思い出せない。でも言い方はまずかったのかもしれない。視線を外されて……、取り合ってはもらえなかった」
 僕は再びマグカップに手を伸ばし、コーヒーを飲んだ。幾分生温くなっていたが、飲めないほどではない。そしてそれから、少しずつ空腹感が襲ってきた。僕は腹が鳴らないようにとっさに右手をあてがった。
「食べたら?」彼女は見透かしたようにそう言った。「トーストは冷めると硬くなっちゃうのよ。知ってるでしょう?」
 僕は頷きながら、トーストを口に入れた。たしかにそれはゴムのようだった。瘦せ我慢をして何度か咀嚼してみせたが、顎が疲れないうちに早めにコーヒーで流し込む。しかし、彼女はそれを見逃さなかった。
「だから言ってるじゃない。美味しく食べて欲しいからわざわざ焼きたてのものを出してるのに。話なんて後にして、先に食べちゃえば良かったのよ」
「ごめん」僕は謝った。彼女の言っていることには少し違和感を覚えたが、その違和感の正体を突き止められるほど、この日の僕は賢くなかった。それにしても気になるのは、彼女の機嫌の方だ。昨日の晩、お前は彼女に何かしたのか?
「えっと、昨夜、俺はここに来て何をしていたんだろう?」自問するだけ無駄だったので、僕は率直に訊ねた。「その、つまり、何かしたんじゃないかと思って。失礼なこととか、乱暴なこととか」
「何もしてないわ」彼女は答えた。「いきなり訪ねて来て、煙草をひっきりなしに吸って、何を聞いても生返事、挙句の果てには出してあげた料理に手もつけず、一人でふらっと二階に上がって不貞寝しちゃうような振る舞いを失礼と呼ばないなら、あなたは何もしてないわ」
 彼女はそれだけ言ってしまうと、脚を組み直して目を閉じた。重い空気が午前八時の部屋を満たす。そうか、それでこの恰好ってわけか。僕は自分の服装を改めてまじまじと見る。薄いブルージーンズに、綿のTシャツ、靴下は履いていない。腋の下に軽く鼻先を近づけてみると、なるほど汗臭い。十代の頃はいくら汗をかいたところでこういう匂いはしなかった。着実に歳は取っている。三十になろうとする男の匂いだった。
「シャワー、浴びてきたら?」彼女が素っ気なく提案をした。「うん」僕は素直に従うことにした。

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