どこまでも清潔で明るい家

1. 土地の話

2016―2021

 これは、ある一軒家が建つまでの記録である。

「なあ、インスタントミーティングIDとマイ個人ミーティングIDって何がちがうんだ?」
「知らないわよ、そんなこと。自分で調べなさい」
「マイと個人っておんなじ意味だよな、かたいっぽうじゃだめなのか?」
「どうだっていいでしょう、そんなこと。それより早くアプリ、立ち上げて。招待URLが届いているはずだから。ほら、来てるじゃない」
「パスワードは何だ、そんなもの決めたおぼえないぞ」
「それも通知されているでしょう、英字と数字の混じった六桁のやつ。いいからそれ、早く入れて」
「なあ、パスワードとパスコードって何がちが…」
どうでもいいっ
 母親の叩きつけるようなひと声が部屋のなかに響き渡った。それとほぼ同時に、見慣れない一室の居間が画面に映し出される。僕は行ったことのない家だ。壁紙は白く、いたって清潔であったが、息を吞むほどの清新さまではそこにはない。照明もやや温もりを欠くと言わざるをえない白色灯で、便宜的な代物に映った。画面の外からは、小さな子どもの走り回る音が聞こえてくる。そして、それをたしなめる新母の声があとに続いた。「…ちゃん、下の階に響くから」「大丈夫だよ、日曜の昼間だしそこまで迷惑にはならないよ」弟の声だ。しばらく会っていないためか、画面に現れた弟の顔はひどくやつれて見えた。頬がこけ、揉み上げにも銀色の筋らしきものが何本か伸びている。起きて間もないのだろう、眼鏡の奥に見える両の目もまだ開ききっていない。ただその快活な声のみが、彼が変わりないことを僕たちに教えてくれた。弟は少し言いづらそうに、次の言葉を継いだ。
「それで、本当にいいのかな。もちろん土地の話なんだけど。譲ってもらった土地に自分たちの家を建てるっていう話…」

 僕らの家―ここではひとまず旧宅とでも呼んでおこう―の隣には長いこと、一軒の平屋が建っていた。僕ら兄弟が物心ついたころにはすでにそこにあったというところで、僕たちの記憶は一致している。その平屋の石塀のまえでピースサインをしている僕たちの写真も今なお、母親の化粧台のうえには残っていた。ところでその平屋―より正確に述べるとあばらや―には、寡夫が住んでいた。男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲くという諺があるが、どうやらそれを地でいくような男であったらしい。元々は建具屋を営んでいたというが、少なくともその家にそれらしき面影はなかった。おんぼろのトタン屋根のせいで、年中、家のどこかしらで雨漏りをしていた。石塀と家のあいだのすき間には呼び名も知らない草木が根を張り、順調にその背丈を伸ばしている。玄関らしき引き戸のまえに放置された自転車は錆びついていて、がらくた同然だった。にもかかわらずその自転車は毎日決まった時間に姿を消し、また決まった時間になると戻ってきた。その男の生存を知る手がかりは、僕らの目にはということだが、それしかなかった。
 本間さん―ずいぶん、後になって僕はその寡夫の名を知った―にその家の売却話を持ちかけたのは、僕らの母親であったらしい。「地続きは買うておけ」とはよく言ったものだが、家主が売りにだしてもいない段階でそれを持ちかけるというのは、僕はこれまで聞いたことがない。さすがに母も良心の呵責をおぼえたのだろう、家の解体にかかる費用はこちらで肩代わりすることを条件として提示した。寡夫は意外にもその条件をあっさりとのんだ。聞いてみれば、家の解体費を工面できないがために長年、そこに住み続けていたらしい。手放せるものなら手放して早く人間らしい生活をしたいというのが、本音だったのだ。それが二〇一六年の七月のことだ。
 家の解体は見るからに呆気なかった。ちっぽけな重機と産廃車がそれぞれ一台ずつやって来て、ほんの数時間、仕事をして帰っていった。他のより重要な仕事の手前に、ちょっと立ち寄りましたという感じだ。あとには、言うまでもなく、真っ新な更地だけが残った。
 ここからしばらく、その土地の顔はわれらが人間ではなく植物の方に譲ることになる。もう少し具体的に言おう。スギナが繁茂しはじめたのである。まず春先に土筆が顔を見せ出した。土筆は指先で数えられる程度の本数しかなかったので微笑ましく見ていたおぼえがある。春風にのせて一通り、胞子を飛ばし終えるとそれらは枯れて去っていった。ところが、そのあとに出てきたスギナはわけがちがった。美しい花を咲かせるわけでもないのに、繁殖力だけは強かったのだ。彼らは夏の間、休むことなく生長を続け、こちらが気がついたときにはすでにその土地の支配権をにぎっていた。何かとあきらめの悪い父親は、エンジン式の刈払機と除草剤で彼らに抵抗を試みた。刈払機がけたたましい音を立てて近所迷惑になるからと母親はかまのみで参戦したが、根を詰めすぎたのだろう、膝を痛めた。そのなかで多少、歴史をかじっている僕だけが、いち早く分が悪いことを悟り、二階のベランダの上から敗北宣言をした。かのナポレオン・ボナパルトでさえ、ロシアの大雪を前にしては頭を垂れたのだ。人間ごときが自然相手にかなうわけないじゃないか、と。

「どうして俺に聞くんだ?」僕は不思議に思って、画面のなかの弟に向かってそう訊ねた。弟は少し困惑した顔を見せた。ズームでは相手の表情が読み取りづらいのだろうと、偏見も手伝って思い込んでいたが、どうやらこちらの杞憂であったらしい。新しいことにたいして警戒心を抱きすぎるというのは、僕がかかえている性癖の一つだった。いくぶん保守的なのだろう。
「いいんじゃないか?」弟が何も言わないので我慢し切れずに話を続けた。「俺はまだ独身だし、とうぶん自分の家を建てる予定もないから。母さんだって『いい』って言ってるんだろ」
「うん」弟は短くうなずいた。父親にも同意を求めようとあたりを見まわしたが、いなかった。肝心なときにいないというのがあの人の悪癖であったが、理由の方はいつもわからずじまいだった。腹でも壊して、トイレにいるのかもしれない。
「それで、三月の中頃、おそらく土曜日になると思うんだけどハウスメーカーの担当者がそっちに行きたいらしくて。もちろん土地を見る目的なんだけど大丈夫そう?」
「大丈夫よ」隣に座っている母親もまた短くうなずく。
「なら担当者ともういちど日付を確認して、確定したら伝えます。ところで、大婆もそこにいるの?顔が見えないけど、元気?」
 大婆とはしばらく前から同居している母方の祖母のことだった。父方の祖母―こちらは「きくの婆さん」と呼ばれていた―は、数年前に亡くなっていたが、母方の方はまだ生きていたのだ。彼女については語るべきことがあるのだが、ここで紹介するのは読者諸氏の頭を混乱させるだけなので、やめておく。しばらくのあいだ忘れていただきたい。ほどなくして再登場させるつもりである。
「大婆は、和室にいるよ。寝てんじゃないかな」
「生きてる……よね?」弟が心配そうな顔をのぞかせた。
「生きてるわよ」母親はそんな心配は無用と言わんばかりに口を開いた。「減らず口ばかりたたいて、うるさいぐらいだから大丈夫。ただ横になっているだけだから」
 弟はそれを聞いて少し安堵したようだ。表情からそれがうかがえた。彼は良くも悪くも、心情が表に出やすい。僕とはちがう。
「ところで、あの鬱陶しいスギナはどうする?」僕は母に問いかけた。
「あれはもうほっときましょ。私、疲れちゃった。あいつら、切りがないんだもん。刈っても刈ってもまた生えてきて。やっぱりくどいのには向かないわね、私は」
「とりあえず土地を見たいだけだって言うし、見栄は張らずに、あるがままを見てもらおう。家を建てる段になったら専門の会社さがして、駆除してもらえばいい。それで、いくらかお金も回るだろう」
 あとになってわかったことだが、スギナに限らず植物は熱い湯に弱いらしい。つまり枯れさせるだけなら、熱湯をかけるだけで充分だったのだ。

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