冷戦(第9話)

 三日後、僕はひとり、横浜方面に向けて車を走らせていた。首都高速はふだんに比べるといささか混んでいるように思えたが、苛々させられるというほどではない。ときどきブレーキペダルを軽く踏まなければならない程度だ。車内のカーステレオでは、さっきからひっきりなしにクリスマス・ソングが流れていた。ラジオ番組が毎年この時期に恒例のクリスマス・ソング・メドレーをかけているのだ。マライア・キャリーの「オール・アイ・ワント・フォー・クリスマス・イズ・ユー」、ワム!「ラスト・クリスマス」、そして、ここ数年のあいだに日本で生まれた新しいクラシック・ソングの数々が順ぐりに流れた。フロント・グラスが曇らないよう、窓を少し開けて走っていたが、山下達郎の「クリスマス・イブ」が流れてきて僕は反射的に開いていた窓を上げた。僕はカーステレオの音量を二目盛だけ上げて、詞が流れてくるのを待った。
 
 
 雨は夜更け過ぎに 雪へと変わるだろう
 Silent night, holy night
 きっと君は来ない ひとりきりのクリスマス・イブ
 Silent night, holy night
 
 
 その詞をいっしょになって口ずさみながらふと、たしかにこの曲を聴いているときはいつもひとりだなと思った。ひとりきりで冬を過ごすのは今年で何年目になるのだろう。僕はためしに指折り数えてみたが、4まで数えたところで、片手では数えきれないことに気づいてやめた。そしておそらく、ひとりきりでいる理由や原因を列挙するのにも、片手では足りるまい。そう思うとひどく気が滅入った。僕はふたたび運転に集中するべく、自分の意識を目の前の景色とカーナビの画面の両方に振り分けた。ただでさえ車の運転はあまり得意な方ではないのだ。目的地に着くまえに事故を起こすわけにはいかなかった。
 芝浦出口で首都高速を降りると、片側二車線の下道ではちょっとした渋滞が発生していた。明け方まで降っていた雪のせいで、ドライバーたちがみな、注意深く慎重になっているのだ。周囲に見える雪の白さの中では、ふだんは鬱陶しく思えるブレーキランプでさえ色鮮やかに、映えて見える。車はひどくのろのろとしか動かなかったが、それでも前には進んでいた。海岸通りを真っ直ぐに走り、左手にある特別支援学校のわきをすぎた。カーナビが「左に曲がれ」と指示をだしたのはそのあたりだった。僕は言われたとおり、次の交差点で左にハンドルを切った。すぐ目の前には橋があり、その下を運河が流れている。橋の先の、大きく右手に湾曲した道をそのまま弓なりに進む。すると、突如、視界が開けるのを感じた。その先には、だだっ広い空間が、まるで人工島のような区域が、はるか遠くの方にまで広がっていた。
 僕は気持ち、車を減速させながら、その区域の中に入っていった。それとほぼ同時にカーナビの素っ気ない声―目的地付近に到着しました、案内を終了します―が車内に響く。目的地付近でドライバーをおきざりにするというのは彼女たちが持っている悪癖のひとつであったが、きっと彼女たちには方向音痴な人間の気持ちなど端から理解できないのだろう。「方向音痴」という概念すら持っているかあやしいものだ。
 しかし僕の心配は、今回ばかりは、取り越し苦労に終った。目的地を探しあてるのに手間取るということがなかったからだ。それは探すまでもなくそこにあったし、僕がこれまでに訪れたことのあるどんな場所にも似ていなかった。
 それは地上十二階建ての建物だった。外壁には不自然なくらいにやたらたくさんの窓がついていて、建物じたいの形も一見して変わっている。正面玄関に通じるスロープの下では、おそらくこの施設の職員であろう、男がひとりたっていて、「GET THE NUMBERED TICKET」と書かれたプレートを手に、あくびを噛み殺していた。石造りの銘板には「東京入国管理局」と彫ってある。
 僕は車を駐車させるべく建物の裏手にまわった。そこにはたしかに専用の駐車場が存在したが、入り口のまえで、職員が車を一台一台チェックしているのが見えた。僕は舌打ちを鳴らした。別に建物の中に用があるわけではないのだ。僕はあきらめて、通りを挟んで反対側に見えるクライミング・アンド・フィットネス・ジムの駐車場に車を停めた。利用客ではない者がここに停めるのを店のスタッフは快く思わないだろう。しかし長居するつもりはなかったし、中をのぞくと、運良く改修中であった。道理で駐車場ががら空きなわけだ。僕は用を足そうと、となりのコンビニエンスストアに入った。底冷えする寒さで、小便をしているあいだ尿道が軽く痛む。トイレ代として煙草をひとつ買って店の外に出ると、表では警備員がたむろしている外国人を、しっしっと口で音をたてながら、追い払っているところだった。騒がしい動物のように扱われたのが癪にさわったと見えて、韓国人らしい年増の女が警備員相手に真剣に食ってかかっている。「ココハアナタノ土地、ソレトモ家?」むろん警備員はまじめに取り合おうとはしない。いかにもうるさそうに、手で「あっちへ行け」という仕草をしてみせるだけだ。「アナタハ話ニナラナイ。ワタシタチ、コノ場所、利用スル権利有ルト思テルカラ。店ノ、オーナー探シテクル」きっと英語は堪能なのだろう、「オーナー」の一語だけは完璧な発音だった。
 場違いなほどに重たそうなスーツケースをひきずって店の中に入ろうとする韓国女。それを制止しようとあわててかけよる警備員。そして、その一連の様子をくすくす笑いながら見物している国籍不明の者たち。どう考えてもここは、クリスマス・イヴにひとりで訪れに来る場所ではなかった。そういう場所ではない。場違いなのはむしろ僕の方だった。

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