どこまでも清潔で明るい家

2. 悪い気はしない

 後日、玄関口に現れたのは岩のような男だった。背丈はさほど僕と変わらない。一七〇か一七二三、せいぜいそのあたりだろう。ただ肩幅が広く、がっしりとした体格のために、その男は実際以上に大きく見えた。なぜハウスメーカーがこの手の男を社員として迎えたのか、その採用理由には想像がおよばなかったが、もしかするとそれは僕がステレオタイプなイメージを抱きすぎているせいかもしれなかった。今どき、細身で長躯の、整った顔立ちをした男は雇ってもらえないのかもしれない。僕はとりあえずそう思うことで、自分自身を納得させることにした。
 彼はその大きな体躯を無理やり押し込むようにして椅子に座った。おかげで背凭れのある、家では大きい部類に入るその椅子が、まるで子供椅子に見える。見かねた母親が「ゆったり掛けてくださいね」と言わなければ、彼は過緊張で、名刺を出すことさえ忘れていただろう。彼はその一言でようやく名刺を取り出すことを思いだしたようだった。名刺には細い文字で「小山透」と書かれていた。母親がその珍客の前にコーヒーと水羊羹を置いた。すべてがちぐはぐに見えたのだろう、父親は今にも吹き出しそうな顔をしている。
「土地提供者はお父様ということで、よろしいんでしょうか?」そんなことにはまるで気がつかないでいる彼が伏し目がちに訊ねた。「息子さんからは事前にそう伺っているのですが、お間違いは……」
「ないです」答えたのは母親だった。夫の方も何か言いたげに口を動かしていたが、肝心の言葉は出てこない。
「わかりました。ではのちほど、お父様のサインは必要になります。お父様が土地所有者になりますので。そして新しく買われた土地と新築予定の建物、これらを担保にローンの借り入れをする、これも間違いない……ですね?」
「ありません」母親が視線を投げかけたのとほぼ同時に、弟が答えた。その言葉の力強さに僕は少し敗北感をおぼえた。
「わかりました。話が早くて助かります」彼の表情に安堵の色が浮かんだ。そしてそれからゆっくりと身体から力が抜けていった。
「ご家庭によってはこのあたりから話の摺り合わせができていない、というよりはっきり揉めているところもありまして……。二三日前に伺ったご家庭なんて御父さんが『土地は長男に―』と言ったとたん、『そんな話は聞いてない』って弟夫妻が叫んじゃって、あれはほんとに悲惨でしたよ。地獄絵図を見せられているみたいで」
 彼は話しすぎたと思ったのか口を噤んで、鞄からタオル地のハンカチを取り出した。VALENTINO CALLIANOと文字が刺繡してあるのが見えたが、意味はわからない。彼はそれで額の汗をぬぐった。彼はたしかにひどく暑そうに見えた。まだ三月ということもあって室内はクーラーが効いていなかったが、扇風機ぐらいなら回してもいい気温だったのだ。僕は外に群生するスギナを窓ガラス越しに眺めながら、今日は四月並みの暖かさとなるでしょうと告げていた朝の天気予報を思いだしていた。弟嫁が気を利かして二階にハンガーを取りに行き、すぐさま下りてくる。男は恐縮しながらもジャケットを脱ぎ、彼女にそれを手渡した。
「すみません。お気遣いありがとうございます。ここまで暖かくなるとは思わなくて。水羊羹、いただいても……?」
 母親が手ぶりで、どうぞと促した。彼は木製のデザートスプーンで水羊羹を口に運んだ。その動きが思いのほか美しく見えたことに僕はいささか驚いた。
「本題が、まだでしたね」彼は軽くむせながら、話を切り出した。そして、一枚の大判の紙を我々がよく見えるようにテーブルの上に広げた。それは土地の測量図だった。
「初めて見る人もいるかもしれませんが、これが新しく購入された土地も含む測量図になります。私たちは今、3525という土地の上にいます。そして新しく購入された土地が3569―1、3524、3523―1ですね。この3523―1というのが、お隣さんと分けられた……」
「そうです。お隣の原中さんと」
「で、建物をのっけたい土地が、息子さんの話ですと、3569―1なんですよね」
「はい」
「わ…かりました。それと、ご両親の要望が全体の土地を二人の息子さんのあいだで分けておきたい」
「はい。後々、もめないように。ただ、そういうことっていうのは可能なんでしょうか?」
「可能です。ただし、どういうかたちで分けるかというのが問題になります。」
「………?」
「つまりですね、土地の資産価値にこだわりすぎると、等しく分けるのがむずかしくなるということです。たとえば……日当たりですとか」
「ほうほう」
「なので、ここは土地の資産価値ではなく、単純に面積で分けるというのは、いかがでしょうか?」
 弟と僕はなんとなく目を合わせた。僕の方に異論はなかった。
「それでお願いします」
「わかりました。なら、話は簡単です。ここを見てください。今いるご実家の土地面積が47㎡、このたび買われた土地の総面積が113㎡、足してちょうど160㎡になります。これをお二人で等分して、80㎡でどうでしょう?」
 僕と弟はふたたび目を合わせた。弟の方に不満はなさそうに見えた。もしあれば、彼は言う。
「それがいいと思います」
 一瞬、間があった。しかしそこに重苦しさはない。彼がまた、静かに口を開いた。
「これから測量士さんと相談をして、具体的な分割案を練ります。後日、測量士が土地面積を測るのにこちらにお邪魔しますが、それは構いませんね。人の財産にかかわることなので、厳密にやらせていただきます。何か質問は、ありますか?」
「ありません」母親が答える。
「わかりました。では、私はこれで……」
 彼はそう言いながら席を立とうとしたが、何かを思い直してやめた。そして、最後にこう言った。
「私も長年この仕事をやっていますが、こういうご家族も珍しいです。普段からよくコミュニケーションをとっているんでしょうね、きっと。ここまで話がスムーズに進むとは。あるんですね、こういうご家庭も。いやほんとに」
 僕らもそう言われて、いたく満足した。悪い気はしないものなのだ。いやほんとに。



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