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【作品評】隣りに居る葛藤【廻花「転校生」】

推しが初めてシンガーソングライターとしての楽曲をYouTubeで発表した。
これは感想を書かねばなるまい。
ということで、書いた。

こちらはバーチャルシンガーソングライター「廻花」の楽曲、「転校生」の感想noteです。

前回noteに引き続き、廻花編!
前回はこちら。

てんてん、転校生の解題

転校する子どもの視点で、寂しさや不安を歌った「転校生」。
「てんてん、転校生」のサビが印象深く、雰囲気は可愛らしい曲のようにも思うが、曲全体には、一色には決めがたい感情が細かく混ざりあっている。

素朴に曲のはじまりを飾る「はじめてのさようなら」から、一転して「ハイウェイ」「ベイベ」「カーステレオ」と、洒落た言葉が続く。
子どもらしい素の感情を、住んでいた町が遠ざかるにつれて、目に映るもので上塗りしていくように。それ自体を寂しがりながら、繕って強がって格好つけるように、歌詞が響く。

歌詞を追いながらサビに入ると、可愛らしい「てんてん、転校生」は、まるで「うまく踊るよ 本来ならば」な主人公の気概を、少しおどけて表現しているようにも思える。
転校生になった自分をちょっと突き放して、なんてことないように軽やかに表現してみることで、うまくやろうとしているような。

だけど、やっぱりそれだけじゃ気持ちは晴れない。あしたの主人公は、教室の場所がわからない。
物理的には、教えてもらえば解決することだけれど、それがどれだけ大きな不安なのかは、サビの終わりの「呪う 4月 ないてる 可哀想」の言葉の強さからわかる。
可愛らしい曲の印象はここで崩される。
さようならは、知らない場所へ行くことは、当たり前のはずなのにわからないことは、主人公にとっては、所詮一日の出来事、で済ませられない。
昇華してもしきれない、呪うべき苦しい重みなのだ。

その不安は曲の終わりまで晴れることがない。
曲を書いた花譜/廻花が、今ここで元気に生きていることは分かるけれど。
私達は緊張のさなかにある転校生の気持ちに、一曲分ただ寄り添って、解消をみることなく聴き終える。

隣にいる歌声

私は「転校生」の歌詞の中で、「おさないながらの バックグラウンド」の言葉をいちばんに好きになった。
ありそうで無かった、「転校」というありふれたイベントの重大さを、わかってほしい、私はちゃんとわかっているよ、という言葉として聴こえるのだ。

廻花は、『千と千尋の神隠し』を観て転校生の気持ちを思い出したのだという。
映画の冒頭の千尋は、新しい町に向かいながら、寂しそうな顔をして、不機嫌に拗ねている。

子どもにとって転校は、住んでいる土地の環境も、仲良くする相手の性格も変わるかもしれない、日常が丸ごと入れ替わるビッグイベントだ。
場合によっては家族の状況の変化に伴っていることもあり、アイデンティティにかかわるといってもいい。
けれど、転校生を迎える側のワクワクや、数年経ったあとの慣れに塗りつぶされて、私達はそれが本人にとっては大事件であることを、あまり意識せずに過ごしてしまう。

おさなく見える子どもにも、今まで築いてきた人間関係があり、生きるために慣れてきた環境がある。
覚えておきたい秘密も、日々が変わればどれだけ残るだろう。
楽曲「転校生」は、まいにちの忙しさや大人の事情に流されてしまいそうなそんな大変さを、ちゃんとここにあるよ、と拾い上げるように歌われる。

この「ちゃんとここにあるよ」「私は気づいてるよ、見てるよ」というのが、私はとても秀逸だと思う。
どこまで意識して書かれたのかはともかく、世界に埋もれがちな痛みを見つけて寄り添うことは、花譜というアーティストが、これまでも持ち味にしてきた強みだからだ。

カンザキイオリが活動の集大成として作り上げた楽曲「邂逅」では、花譜はこう歌う。

君の目には悲しみしか見えないのなら
同じ寒さで悲しみしか歌わないから
さよならばかり傷跡ばかり大切でもいいよ
孤独じゃないよ 目を閉じれば 僕がいるよ

2023年、カンザキイオリ

カンザキイオリが書く悲しみのかたちは、世の中を引っかくような鮮烈なものだ。
けれど、だからこそ誰かの悲しみに寄り添いたい、という気持ちは、彼の楽曲の中に共通している。

花譜の声はどうもこの、「寄り添う」機能にとても向いていて、だからカンザキイオリとともに、デビューから「邂逅」に至るような、五年の旅路を築けてきたのだと思う。

ひるがえって廻花は、あくまで自分の葛藤を歌にしていると言い、寄り添いたい、なんて歌詞を直接書いてはいない。
それでいいと思う。廻花の歌は、廻花のための居場所なのだから。
けれど、「転校生」、繊細な葛藤を取り上げ、ただ歌の主人公が不安がるままに歌を終えるこの曲は、まるで「悲しみしか見えない状態の誰かに、同じだけ悲しみを歌ってあげる曲」のようにも聴こえる。
たとえ本当に書かれている対象が、かつての廻花自身であるとしても。昔の自分に、そして昔の彼女を通して共感した誰かに、歌を通じて寄り添うような。

実際に転校を経験した聴き手一人ひとりにとっては、情景は違うかたちで響くのだと思う。

含めない笑みを浮かべ、歪めた口の端で話したのは転校前の友達か、転校後のクラスメイトか。デジャブを感じるなら両方かもしれない。
「転校してもずっと遊ぼうね」なんていうのは、叶わぬ願いに近いだろうか。じゃあ願うことなんてないと押し込めても、想いは顔を出す。
好きな人がいたらどうだろうか? 離れても変わらぬ千年の恋なんてできますか? ずっと好きだから安心してね、なんて言えますか?

目が合った廊下 導火線
火付けの鼓動 ドドドン ドドドン

これは新しい教室のクラスメイトに見つかって、声をかけられるまでのカウントダウン? あるいは、別れを告げなければならない大切な人に向ける、残された最後の時間?

謎掛けのような抽象的な歌詞が、花譜の「寄り添う」歌声を通して、色々な「転校生」のもとへ届く。

廻花という「転校」

そして同時に、曲のメッセージ性に加えて、「転校生」には面白いメタ・メッセージもある、と私は思っている。

廻花チームが、一曲目に「転校生」をリリースしたこと。
それは偶然かもしれないし、共感と個性のバランスがちょうどいい、まっさきにファンに聴いてほしい曲だったからかもしれない。

けれど、私達の前に姿を表したばかりの「廻花」という存在も、まるで「転校生」のようではないだろうか?

もともと、花譜チームの一員として、楽しそうに活動を行っていた彼女。
もちろん花譜の活動を辞めるわけではないが、新たなステージとして選ばれた表現方法が「廻花」だ。

それは、あちらの世界からこちらの世界に、こんにちは、こっちでもよろしくね、と「転校」してきたようにも思える。

そう思って「転校生」を聴くと、彼女はどこかとぼけたような、緊張したような口調で、
「目が合った廊下 導火線」
と歌う。
はじめまして、とライブで姿をお披露目した廻花と、曲の印象がおもしろく重なり合う。

花譜にとっても、久しぶりの「はじめて」。
彼女はきっと、今までは知っていたはずの「教室の場所がわからない」ような不安の末に、笑って出てきてくれたはずだ。

私はそのことをとても嬉しく思うし、彼女が作り・歌う歌が、彼女の今、どんな気持ちかもわからない心を汲んで入れておくような、居場所になるといいと思う。彼女自身言うように。

そしてファンとして、あるいは友達として、
「転校生」廻花を、笑顔で迎えたいと思う。
はじめまして、こんにちは。仲良くしようね。
私達もドキドキしているよ。同じ寒さ、同じ暑さかはわからないけど、できるだけ同じ表情で笑いたいくらいには。

案外おふざけが好きな彼女が薦めるままに、たくさん曲を聴いてみた。
それで感じたことをまとめたのが本記事だが……まだまだ、PVからも感じられる感情はあるだろうし、他の曲のリリースも楽しみだ。

同じくドキドキしているファンや、花譜・廻花チームの皆さんに、少しでもこの解題が届けばいいと思い、ここで記事は終わりにする。

ターミナル本当にいつでも聴きたい。よろしくお願いします。

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