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憐れんで笑ってあげるから 『短編小説』

※こちらの作品は以前投稿した『初めての涙』と連作になっております。こちらだけ読まれても問題ないですが、『初めての涙』を読まれるとよりわかりやすく、面白く読めるのでは……と思います。


 松岡先輩が、浮気した。
 あたしは最初、それを信じられなかった。だって、先輩はいつも優しかったから。告白してきた時は恥ずかしげに耳を赤くして、緊張で震える声で明後日の方向を見ながら小さな声を絞り出し、好きなんだ、と言った。デートする時はいつも口コミが五分の四以上の所に連れて行ってくれて、もちろん食事の会計は先輩がした。人気のない所に行くとさり気なく指を絡めてきて、その手を握り返すとくしゃっと笑った。あたしは先輩の温かい手が好きだった。真冬でもカイロみたいな温度で、あたしの手を包み込む。骨張った関節と長い指に、男らしさを感じてドキドキした。
 いつだって私を最優先にしてたのに。どうして? どうしてあの日、他の女の子といたの? 日曜日、信号待ちで停車した車の窓から見えた彼らは、映画館から出てきたところだった。友だち、とはとてもいえない距離感で、いつもなら私に向けられている照れた瞳が、その女の子に注がれていた。漫画だったら、兄妹でしたーってオチになるかもしれないけど、あたしは知ってる。彼には兄が一人いるだけで、姉や妹はいないこと。そしてモテる割にちょっと初心で、女の子に中々近づかないこと。
 何より、あたしに嘘をつくことなんて、今までなかった。
 月曜日は一応登校はしたけれど、授業を受ける気にはならなくて、それに先輩に会いたくなくて、一時限が始まってすぐに帰った。今日は、金曜日だ。まだ、先輩は何も言ってきていない。

 
美里みさと?」
 なおちゃんがあたしの顔を覗き込む。その瞳は少し遠慮がちで、他のクラスメイトの瞳と変わりない。みんな、知っているのだ。だから、あたしを腫れ物みたいに扱う。
 あたしはお弁当箱の隅に押し込められた卵焼きを、口に持っていった。
「なあに、尚ちゃん」
 卵焼きは、味が濃くて甘い。本当はだし巻き卵の方が好きなのだけど、ずっとママに言えずにいる。
「ううん、美里がオレンジジュース飲んでるの久しぶりに見るなって」
 私は机の上に置かれた橙の紙パックを見た。
 そうかもしれない。先輩と付き合ってからは、先輩の好きな、甘い苺ミルクばかり飲んでたから。本当は甘ったるいのは好きじゃないけど、一緒なのが嬉しくてわざと合わせた。
「……大丈夫?」
 そう尚ちゃんが問う。先輩とのことだ。あたしは俯いて、睫毛を落とす。正午だ。日が真上から差して、頬に睫毛の影をつくるはず。
「……ん」
 あたしはいつも、ヒロインでいなきゃ。サラサラの髪、白い肌、丸くて大きな瞳、細い身体。ちょっと儚い感じに笑ったら、人の目を惹きつけずにはいられない。
 睫毛を震わせて涙の滴が頬を辿る時の、周りの人の反応が好きなの。唇を少しだけ噛んでみた時の、他の人の視線が好きなの。口端を上げて目を細めた時の、男の子のたじろぎが好きなの。みんな、あたしの望み通りの反応をしてくれる。
「大丈夫よ。今日……先輩と話をするの」
 少し笑ってみせる。尚ちゃんはそっか、と言ってそれきり黙り込んだ。
 尚ちゃんは、あたしがまだ保育園に通っていた頃にアパートの隣の部屋に引っ越してきた。あたしとは違う黒い髪、黒い瞳、日に焼けた肌、はっきりした顔立ちだけど、吊り目で少し人を寄せ付けない雰囲気。あたしはすぐに彼女を気に入った。幼いなりに私は知っていたのだ。自分と正反対の子といれば、自分の特徴を際立たせることができると。例えば、濃い色の横に薄い色を置くと、本来の色よりも薄く見えることがあるでしょう? だから、あたしは極力彼女と一緒にいるようにした。気はそんなに合わなかったけど、そんなことは問題じゃなかった。彼女が私を好きなことは知っていたし、私だってもちろん彼女を好きだったから。
 オレンジジュースを、細いストローから吸い込んだ。程よい酸味と苦味が、オレンジの甘さと共に口の中に広がる。口当たりは爽やかだ。やっぱりあたしは、苺ミルクよりこっちが好き。

 “放課後、部室に来てくれない?”
 朝、先輩にそう言われた時、あたしは緊張感と共に少しほっとした。浮気が発覚して、これ以上一緒にはいれないと思ったけれど、自分から別れ話を切り出すことはできなかった。だって、一度の浮気も許せない心の狭い女、なんて言われるのはごめんだもの。ちゃんと振られて、他の人の同情を得なきゃいけないんだもの。
 あたしは冷たい水道水で手を洗い、ハンカチで手の上の水滴を拭った。鏡を見て身だしなみを整える。リップクリームを塗り直し、前髪を梳かして、傾いていた制服のリボンを直し、鏡に向かって微笑んでみた。
「……よし!」
 トイレの扉を押し開け、体育館横にあるバスケ部の部室に向かう。金曜日はバスケ部はお休みだ。誰もいないことを見越して呼んだのだとすれば、別れ話に違いない。
 中学生の時も、彼氏がいた。最後の彼氏も先輩と同じように優しくて、でももっと臆病だった。彼との別れ話は、よく覚えている。あの時は教室で突然、ごめん、と言われ、二ヶ月だけの付き合いだったし、その言葉に驚いたけれど、周りにたくさんのクラスメイトがいたから、あたしはすぐに涙を溢した。だって、あたしは悲劇のヒロインなんだから。驚きすぎたり、相手を責めたり、ましてや逆恨みして虐めたりするなんて、あり得ないんだから。
 ————今日は、他に誰もいない。部室で二人きりだ。
 いつの間にか、部室の前まで来ていた。少し錆びた扉に手を掛ける。
 先輩はもう来ているかな。受験生になって忙しそうだったから、まだかしら。
 ドアノブに触れたまま、躊躇した。掌がステンレスのドアノブに張り付いたまま動かない。この扉を開けたら、もう、終わってしまう。あたしと先輩の関係に終止符が打たれてしまう。ゆっくりと、深呼吸をした。
「前田?」
 聞き慣れた声が耳元で響き、あたしは後ろを振り返る。
「松岡先輩……」
 昼休みも、廊下でも、ずっと避けていたから、顔を見るのは久しぶりだった。部活を引退しても相変わらず小麦色の肌。短い髪は清潔感があり、子鹿みたいな瞳は今までと同じように可愛らしかった。
「どうしたの? 入ろうか」
「あ、うん」
 ドアノブを回し、手前に引く。ステンレスに張り付いていた手は、あっけなく剥がれて、あたしを部室の中にいざなった。室内を見回すと、バスケットボールやゴールリングがきちんと置かれている。小さな窓からは、夕焼けの日の光がぼんやりと差し込んでいた。
「こんな感じなんだ」
「あれ、来たことないっけ」
「うん」
 どうしたらいいかわからなくて、あたしは室内を見るふりをしてぐるりと部屋を一周する。静かな空気の中に、先輩の緊張感が伝わって急に緊張が高まった。
「前田」
 あたしは足を止め、先輩の方に向き直る。距離はそんなに遠くない。せいぜい二メートルと言ったところだろう。
 少しだけ首を傾けて、言葉の続きを促した。言いにくそうに、まるで告白してきた時と同じように目を泳がせながら、先輩は口を開く。
「……ごめん、すごく、勝手だってわかってる。他に……好きな子ができた」
 あたしは、瞼を伏せて地面を見つめた。背の高い先輩には、あたしの表情はわからないだろう。
「本当に、ごめん」
 下を向いたまま、あたしは首を振る。視線は動かさない。
「……っううん」
 俯く、という行為は、受けた衝撃を表すのに有効だ。表情を作り込まなくても、ショックだ、と伝えられるし、顔が見えないことで相手の不安を煽ることができる。
「ごめん、前田、ごめん」
 何度も謝る先輩の声に、ちゃんと付き合っていた頃の先輩を思い出して胸がきゅう、と締まった。先輩は、あたしが嫌になって別れると決めたわけじゃない。ただ、あたしより好きな子ができただけ。初めは大好きだったおもちゃでも、新品には勝てないのだ。
「……ううん、ありがとう」
「え?」
「あたし、この一年、先輩と付き合えて本当に楽しかったし、嬉しいかったから……それにあたしにも非があったかもしれないし」
 こういう時、引き止めたりするとしつこくて、嫌われるかもしれない。だからと言って素っ気ないのは、本当に好きだったのか疑われるから駄目。あくまでも悲しいけど諦めた風に、相手の言葉を受け入れる。
「そんなことはないよ! 俺は本当に前田が好きだったらから」
 その言葉に、少し嬉しくなって顔を上げた。そして同時に、とても寂しくなった。もう、この人はあたしのものじゃないんだ。他のどっかの女の子のものなんだ。それはとても悲しくて、寂しかった。だから、あたしにとって最大の引き止めの言葉を、口にする。
「あたしも、好きだったよ」
 そう言うと、先輩はいつものように、くしゃっと笑う。
「ありがとう」
 その時、突然今までになかった感情が、胃の下から這い上がってきた。
 好き、とも、悲しい、とも違う感情。同情に少し似ていて、あたしは初めて先輩を見下ろした。
 それは、“かわいそう”という感情だった。
 あたしを捨てるなんて、なんてかわいそうな人なんだろう。あたしより他の女の子を取るなんて、なんて見る目のない人なんだろう。
 日曜日の昼間、車の窓から見えた女の子は、遠目だったけれど可愛い子だったと思う。でも、あたしの方が断然可愛い。仕草だって、癖だって、あたしの方が優ってるに違いないのに。
 その時、完全下校のチャイムが鳴った。窓から差し込む光は、最初よりももっと薄ぼんやりと、部室の床に落ちている。
「……帰ろうか」
「うん」
 先輩がドアを引くと、蝶番が少し軋んで音を立てた。体育館は秋らしく、少しひんやりとした空気を纏っている。足を踏み出すと、上履きのゴムが床に引っかかって、キュ、と音を立てた。今までとは違って、先輩と一メートルくらい間を開けて歩く。もちろん指を絡めたりなんて、しない。
 先輩と階段の前で別れて、教室に鞄を取りに戻った。窓際に近づき、外を見ると、校庭の周りに生える木が、紅く染まり始めている。しばらくすると、下を鞄を背負った先輩が横切るのが見えた。
 先輩、先輩の決断が正解かそうでないか、今はまだわからない。でも、きっといつか、先輩が今日の決断を後悔する日が来るわ。その日が来た時、あたしはあなたを、憐れんで笑ってあげるから。

 次の月曜日、あたしたちが別れたことを噂するクラスで、あたしはちゃんと悲劇のヒロインを演じた。
 頬に睫毛の影を落として、震わせる。翳りのある表情と涙は本当に相性がいい。オレンジジュースを口に含みながら、あたしはそう思った。
 


 

 

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