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空気とか、水とか、電気とか

noteは、既に生活の一部なんだけど

とりあえず書き進める。待っている時間がない。何か頭の中で、いいアイデアを思い付くとかそういう事を待っている時間がない。
いいアイデアが浮かばなくても、書き進めなければならない。相変わらずテーマとかもない。
中には、ずっと待っている人がいるのかもしれない。何かを思い付くまで。それでそういう人は、その何かを思い付いてから書くのかもしれない。
自分には、そうする自信も時間もない。自分はnoteを書く為だけに生きているのではないし、他の事もやらなければならない。
noteは日常生活の一部であり、全体ではない。
ただ、一部ではある。noteは既に、生活から切り離されないものではあるようだ。

空気とか、水とか、電気とか

生活の一部であると言えばそうなのだが、それは普通の事なのだろうか。それとも、特別な事なのだろうか。
それは、空気とか、水とか、電気とか、そういうものとそれほど変わらない気がする。
それで、それって普通なのだろうか、特別なのだろうか。結局、必要なものではあるのだろうけど。当たり前過ぎて、その必要性が分からないくらいに。
自分にとって、noteは現在そういうものである。この間までは、Twitterがそんな感じのものだった。何かⅩになってから覚めたみたい。
子供の頃だったら、野球とか。若い頃だったら、映画とか小説とか。かなり普通に生活の一部だった。
結局、何時もそういうものがあるという事ではある。意味があるとかないとか、あまり関係ない。
或いは自分は、自分にはというよりも人間には、他人とのコミュニケーションが必要だという事を言いたいのかもしれない。

コミュニケーションとか自己表現を根拠に

人間は、他人とコミュニケーションをとって生きている。それも当たり前過ぎて気付かない。
それが必要であるという事は一般的に理解されているのだろうか、いないのだろうか。実際、自分には必要であるとしか思えないが。
自分はこういうものですという時に、それは口に出さなくても表現される。
自分もコミュニケーションを根拠に生きている。そういう時に、自分も自己表現をして生きている。
結局人間は自分はこう思っているとか、こんなものが好きだとか嫌いだとか、それを表現して生きている。
逆にそれを表現しない人は、ちょっと変わった人かもしれない。精神病患者であるのかもしれない。現実的に自分は精神病患者であるが、現在寛解状態で普通に自己表現をして生きている。
特にテーマはないけど、現在noteは生活に根差しているものであるようだ。

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